グラフィックデザイン、印刷などのネクスト・ワン(福山市加茂町百谷228-1、粟木原清司代表、TEL084・949・3567)はこのほど、金粉による蒔絵加工も可能な特殊シール「Affix」(アフィックス)を開発、代理店を通じて全国の量販店で販売できる体制を整えている。
「Affix」は、シルクスクリーン印刷による鮮やかなデザインの絵柄のシールで、特殊なインクで高さ約二百ミクロンまでの盛り上がりを表現できるのが特徴。また金粉をインクと混ぜて盛り上がりを表現する「蒔絵加工」も可能で、なめらかなグラデーションも表現できることから被写体の高級感やオリジナル性を高めることができる。サイズはB4まで。蒔絵加工の金紛は、エルジーと呼ばれる比較的低価格のものから代用金、本金までを扱うことができ、インクとの混合の割合で金の入った赤や緑なども表現できる。インクには屋外での使用にも耐える硬化剤を混ぜるため、強度も強い。
これまでタイルの装飾や化粧品の瓶の装飾などのシール製作例があるほか、珍しい例では、京都太秦の映画村でも、撮影用にと寺の紋などのシールが使用されたこともあるという。
3D曲面の被写体に貼る場合はさらに特殊な加工が必要になるが、平らな面、2D曲線、凹面などに対応。貼り方も簡単で、被写部分の汚れを除去し、シールの裏側をはがしてデザインの部分を透明シートの上からこすり、透明シートを百八十度折り曲げてはがすとデザイン部分だけが転写される。金属、プラスチック、木製品、ガラス、陶磁器など様々なものに転写できる。ホームページ(http://www.decometa.jp)でも使用例などを紹介している。
製造工程には細かな手作業の部分が多いため大量生産には向かず、小量多品種が基本。府中、福山などの家具メーカー向けの家紋シールなどを手掛けていたことから十七年程前から技術は既に確立していた。代理店の熱心な働きかけで、東急ハンズ横浜店(横浜市)で既製品の販売を開始、全国の東急ハンズでも販売する計画が進んでいる。木原清司代表は「蒔絵加工できるメーカーは全国でも少ない。技術を活かしながら量もはける体制を整えたい」と話す。来年四月の法人化を目指している。
総合建設業の山晴建設(株)(福山市春日町2-5-29、資本金二千万円、高尾英士社長、TEL084・941・1414)はこのほど、広いフリースペースを重視した注文住宅「恵みあふれる大空間のある家」を商品化、営業を始めた。
標準的な間取りは玄関の向きによる「東」「西」「南」「北」の四種類。いずれも一階は応接室以外を、対面式システムキッチンやリビングを含め十〜十二畳分のフリースペース。寝室以外をフリースペースとした二階には梁を渡す大きな吹き抜けを取り入れており、家族構成の変化による間仕切りなどリフォームにも対応しやすい進化住宅としてもPRできるのが特徴。部屋数を少なくすることで、一般的に少子化が進んでいる現状にも対応した。
またIHクッキングヒーターや電気温水器が標準仕様の電化住宅、さらに高気密高断熱仕様。屋根も太陽光発電を設置しやすいデザインを採用。同社ホームページ(アドレス=http://www.sansei-34.co.jp/)でも間取りや外観のイメージを紹介している。
価格は坪四十五万円前後。ターゲットは二十代後半から三十代前半だが、この夏に完成した一棟目を会場に同社として初めて開催した見学会には約五十組が来場、四、五十代の来場者も興味を示すなど手応えを感じたという。年間十棟が目標だが、事業の柱になるよう成長させたいとしている。また同様にフリースペースを重視した共同住宅の展開も検討している。
同社は住宅、マンション、事務所や工場、学校、病院などの建築工事のほか土木工事、プレハブ建物設計施工、宅地建物取引業などの総合建設業で、個人の注文住宅は年間約十五棟を手掛けている。昨年から住宅部門を強化するために二十代、三十代の若手社員を中心に「どんな家が欲しいか」をテーマに企画を煮詰め、フリースペース重視の住宅を開発した。同社の山崎斉三取締役副社長は「コンセプトは家族が和めるスペースとしての大空間。家賃感覚で自分のものになり、電化住宅など自然に優しい要素も取り入れた。積極的に営業展開できる商品」と意気込みを話している。
瀬戸田町荻のかんきつテーマパーク「シトラスパーク瀬戸田」の経営難が表面化し、今後の運営や活用方法が注目される。
同施設を運営するのは瀬戸田町や内海造船など五社を中心に出資している第三セクター会社、関係者によるとこの三セク会社は本年度末で解散し、町が施設の有効利用を検討していくことでほぼ固まった。
公園内の施設はそのまま残し、農業公園として開放する案が有力視されている。施設を所有する県と町が近く来年度以降の活用策について協議して決めることになる。
シトラスパーク瀬戸田は瀬戸内しまなみ海道が開通した前年の平成十年に開園、十一年の開通初年度には五十二万二千人が訪れる盛況だったがその後は年十万人台に激減、本年度は八万人台に止まる予想で、赤字経営が続き累積損失も六千七百万円に上っている。
園内にはメーン施設として食の館(展望レストラン等)、香りの館(オリジナルコロンが調香できる)、芳香の森(ハーブガーデン)、世界のかんきつを集めた「シトラスパビリオン」、全長百八十mのスーパースライダー、パターゴルフ場、多目的広場、国内施設の情報を知らせるインフォメーションセンターなどがある。園内のどこからでも瀬戸内海の、多島美が展望できる。園のすぐ南側には瀬戸内しまなみ海道が走っている
入園料は大人八百円、中人(高・大学生)六百円、小人(小・中学生)四百円、二十人以上は団体割引で10%引き、四月から十一月まで無休、十二月から三月までは毎週火曜日が休園。
インテリアに関するプラン、商品開発などの(有)マリコ(井原市東江原町972-1、資本金三百万円、池田真理子社長、TEL0866・62・0880)は、同社が開発した床ずれ防止マット「Maliko(マリコ)」を三原で行われた福祉機器フェアに出展して以降問い合わせが増え、販売代理店も決まるなど積極的に営業展開している。
床ずれ防止のインテリアマット「Maliko」の最大の特徴は通気性と弾力性。中に使用するクッション材に、東洋紡績(株)(大阪市)が開発したポリエステル製「ブレスエアー」を使用、体から出る湿気が側面から排出される構造を持つ。厚さは三pで、七pのウレタンマットレスと同じ体圧分散効果があり、床ずれ対策に有効。夏は温度上昇が少なく蒸れにくく、冬は体温を保持する保温性がある。汗やムレ、床ずれなどの対策に悩む人らに好評という。
また折り畳める利便性や清潔さを保持するためにブレスエアーは細長く十分割してあり、オープンファスナーのカバーに入れて使用、丸洗いでき乾燥も早い。また上部を折り畳んで通気性の良い枕にする利用者もいるという。従来のマットレスなどと比べて軽いため、お年寄りや体の不自由な人でも簡単に持ち運べる。
カバーは綿百%で吸湿性に優れるデニム生地を使用。色が人間に与える心理的影響を考慮し、ベージュ、赤、インディゴブルーの三色を用意。血圧を安定させたい人にはインディゴブルー、鬱傾向のある人や元気になってもらいたいお年寄りには気分を昂揚させる赤いカバーの使用を提案、同社ホームページ(アドレス=http://member.nifty.ne.jp/i-mariko/)でも紹介している。
八月に三原市のサンシープラザで開かれた「福祉機器フェアみはら」にも出展し、問い合わせが急増。身体障害者小規模通所授産施設みのり作業所(三原市西宮町)が販売代理店として契約するなど販路を拡大している。池田真理子社長は「知り合いが買ってくれることから始まったが、体で感じてもらう提案を通じてようやく商品自体を評価してもらえるようになってきた。口コミというものが分かりかけてきた気がします」と話す。また広島県内の自治体でも、障害者が購入する際に補助が受けられる商品に指定されるなど、評価が高まっている。
またマリコはこのほど、東洋紡績が開発したブレスエアーのインソールの販売を開始した。蒸れにくく丸洗いできる特徴はマットと同じ。販売するのは同社とみのり作業所で、一足千円。池田真理子社長は「市場に初めて出るインソールには期待しています。まずは実際に使用して体感してほしい」と話している。
「春雨じゃ 濡れて往こう」は大正時代に生まれた演劇月形半平太の名台詞。尾道テゴー座の公演も十一月十六日に迫り、名台詞の生みの親であり、公演のテーマ人物となっている尾道出身の脚本家行友李風を特集で取り上げた。
文学のまち尾道は千光寺公園内の文学のこみちで知られる。また林芙美子、志賀直哉といった著名作家とのゆかりも知られる。しかし名前の知名度はさほどでもないが、「春雨じゃ」の例のように日本人なら誰でも知っている台詞を生んだ人物をも輩出していることにいまさらながら驚かされる。
行友李風を掘り起こした元尾道市文化財保護委員の畠中美恵子さんによると李風ばかりではない。尾道市制施行百周年の記念事業として行われた文学フェアで李風とともに取り上げられたのは高垣眸と横山美智子の二人。この二人もすごかった。
「怪傑黒頭巾」を楽しみにした世代は今八十歳前後だろろうが、この名作の名前は若い世代にも語り継がれている。少年倶楽部に昭和十年に連載され、当時、日本中の少年少女がとりこになったと聞く。作者は明治三十一年に尾道市土堂町(現土堂二丁目)で生まれた高垣眸。
「緑の地平線」が連載中の朝日新聞を楽しみにした世代は今八十歳よりもう少し年上の世代だろうか。この名作も連載された昭和九年、若い世代を中心に日本中に熱狂的なファンを築いた。作者は明治二十八年に尾道市久保町(現久保一丁目)で生まれた横山美智子。
昭和九年と昭和十年。この二年間は子どもから大人までロマンを求める日本人の心を尾道出身の二人が独占した時代だった。
昭和九年、生涯の地と定めた小林和作画伯が尾道に移り住み、同じ年にアララギに参加した歌人中村憲吉が静養先としていた千光寺下の住まいで亡くなっている。
林芙美子が「放浪記」を発表したのは昭和三年。大正元年からしばらく千光寺山中腹の三軒長屋で暮らした志賀直哉が「暗夜行路」を完結させたのが昭和十二年。
今、文学のまちと呼ばれる尾道は昭和十年前後、間違いなく日本の頂点として輝いていた。決して尾道を意識した読者がいたとは思われないが、尾道の風情が育てた心からほとばしった輝きだった。
文学フェアの資料冊子に「尾道と母、横山美智子」と題した文章を山脇百合子さんが寄せている。「夢の港・尾道」と副題の付いたその文中には母横山美智子の日記から引用した「私の町、おのみち」が載っており、『…かじや町のチンカン、チンカン 火の鉄を叩く金づちの音にも 気をつけて歩け けがするなと 尾道のやさしい声が流れてきた…』とある。母親の心境を山脇さんは「尾道にお返しの贈りものをする気持ちで作品を書いたのではないか。夢の港町尾道に捧げる花束をいつも心の中にもっていた」と記している。
今でも漫画家のかわぐちかいじさん、映画監督の大林宣彦さんなど日本の文芸活動を代表する人たちが花束を抱えているように、尾道は感性を育む力を維持している。失うことがないように努めたい。(J)