深津村の庄屋石井武右衛門盈比が託した遺金を基に千田村庄屋河相周兵衛が同志を糾合して義倉を創設したのが文化元(一八〇四)年で、平成十五年は義倉創立二百年。脈々と義倉の精神を貫く財団法人義倉(福山市城見町1丁目4-25、河相典男理事長、TEL084・923・0631)は十一日、福山グランドホテルで祭壇を祀った「義倉創立二百年記念祭」を行った。
祭典では河相理事長をはじめとする関係者が積善に感謝を込めて祭壇に玉串を捧げ、今後一層の努力を誓った。祭典後は美星町の備中神楽「神光社」が神楽を奉納、広島大学名誉教授の青野春水氏が全国でも江戸時代から続く義倉は珍しく、継続させるための一貫した資産運用の精神があった…など福山の義倉が継続した秘訣などを講演した。
続いて協力者ら約百二十人による祝賀会となり、河相理事長が「男子の本懐これに優ことなし」と心境を吐露、立石定夫元福山市長、小林政夫元福山商工会議所会頭の二人(いずれも故人)に励まされた思い出を紹介し、支援者への感謝を述べた。
続いて三好章福山市長が「一万四千冊を数えた蔵書を持つ私立図書館が戦災で焼失したことは福山のみならず県東部の大打撃だった。それに屈せず生活文化の向上に尽くされ、市立図書館への寄付で購入された図書は二十七年間で二千冊を超えている」と感謝を祝辞に替えた。
財団法人義倉は福祉、教育、殖産分野でその活動が評価される団体への助成を続けており、創立二百年の記念事業として創始者河相周兵衛の座像を敷地に建立している。
福山市競馬事務局は(株)エフエムふくやまとドコモ中国福山支店の協力を得て二月一日からNTTドコモの第三世代携帯電話「FOMA」を使って、全国初となる競馬中継の配信「福山競馬Vライブ」の試験運用を始める。
受信できるのはこのほど募集したモニター五十人のみ。FOMA向け試行サービス「Vライブ」を使い、福山競馬場内で放映している馬場映像と音声を東京のVライブセンタに電送し、参加モニターがFOMA通話回線を使って東京の電話番号へ接続して受信する。テレビ電話機能と同じ品質の動画が楽しめる。
参加モニターは端末機を無償提供され、受信に必要な通信料のみ自分で支払う。受信の通信料は通話料の約一・八倍。料金プランにもよるが平日昼間三分間百八十円、土日・休日百二十六円が目安。モニター期間は三月三十一日まで。福山競馬場では問題がなければ、「Vライブ」の本格サービス開始時期と合わせて本格的に運用する計画。
世界的な建築家、安藤忠雄氏が増築と旧館の改装を手掛けた尾道市立美術館が十日、リニューアルオープンし、記念特別展「印象派の故郷、ノルマンディーの風景」も翌十一日から始まった。
場所は千光寺公園内。同館玄関内通路で十日午前十時に亀田良一尾道市長、松谷成人同市議会議長、安藤忠雄氏の三人によってテープカットされ、入館した関係者約百二十人が二階に集まって式典を行った。
亀田市長は「とにかく観て欲しい。多くを語らない方がいい」と感激から感謝のみのあいさつ。
設計した安藤氏が「九十歳まで生きる時代。百年はもたせないといけないと悪戦苦闘した。壊すのかと思ったらお寺のような建物を残すという。やっぱりやめようかなぁと思ったが、市長さんの熱意に古い建物と新しい物をドッキングさせることに挑戦した。違和感なく、美しく歳をとる建物になった。古いものと新しいものをつなぐジョイント部分は全部新しい建物ではつくれない。そこに隠れ家的な空間ができた。意図的かも知れないが、美術作品を観て自分の場所をもてる。若い人から老人まで美術を通して対話ができる。瀬戸内海の風景と美術を通して考える力を育む開かれた美術館がスタートできればいい。いろいろな面で新しい試みがなされた。市民みんなで展覧会を考えましょう。東京物語で全国に知られた尾道が楽しい場所になって欲しい」と引き受けた経緯から今後への期待までを述べた。
続いて作品を貸し出してもいるフランスのカーン美術館からやって来たアラン・タピエ館長が「建物と美術作品の結婚が日本でも行われることを喜びたい」と祝福しながら乾杯の音頭をとると、集まった関係者らは歓談も早々に、名画の並ぶ展示室へ移動して観覧に入っていた。
特別記念展は英仏海峡に面したノルマンディー地方を愛して描いた巨匠たちの作品がずらり。ブーダン、ミレー、モネ、シセリ、ラヴィエイユ、コロー、デュプレ、マルケ、デュフィ、ピサロなど世界的な美術作品約百点が一堂に会している。
同展覧会は二月十六日まで。観覧料は大人千円、大・高生八百円、中・小学生五百円。午前九時から午後五時。月曜日休館。問い合わせはTEL0848・23・2281まで。
尾道市立美術館は平成十三年五月から休館、二十三年前に建築した本館を改装、約七十年前にNHK尾道放送局として建築された建物を改装していた旧館を取り壊して、鉄筋二階建て延べ約六七十平方mの新館を新築した。本館は市内の西郷寺に模した外観。新館は安藤建築の特徴を現すコンクリート打ちっ放しとガラス張りの明るい空間。瀬戸内海が一望できる本館一階に観覧料なしでも利用できるミュージアム・ショップと喫茶室を設けた。総事業費は約六億円。
森重彰文館長は「本物をぜひ観に来て欲しい。子どもたちはこの機会を見逃さないで…。休館日も学校単位で受け入れたい。今回の名画も次回のゴッホの跳ね橋も世界のどこかでまた目にする名画。この絵を初めて尾道で観たと思い出せるよう心に焼き付けて欲しい」と教育面でも二度とないチャンスと捉え、意欲的に取り組んでいる。
家具加飾塗装、建材塗装などの三幸美工(有)(福山市芦田町下有地29、資本金三百万円、大塚弘幸社長、TEL084・958・4269)は自社開発商品としてスギやヒノキを使用した家具、小物を製作、直売するほか、家具メーカーや小売店への提案を進めている。
スギ、ヒノキは建材としての利用が一般的だが、同社ではその香りが持つアロマテラピー効果に着目。子ども用の机や椅子などを試作したところ好評で、特注家具の注文が相次いだ。シックハウス症候群など住環境における塗装を原因とする健康障害が問題視されているなか「使う人に害のない家具を」と本業の技術を生かし、撥水効果がありかつ香りは通り抜ける特殊な撥水塗料で塗装する。焼けや色落ちもしにくい。
その商品をシリーズ化したブランド「Natural Feelくつろぎ夢図館」も起ち上げた。ヒノキのアロマテラピーの作用で入浴時のリラックス効果を高める風呂関連商品の「ひのきんトリオ」は、浴室用すのこ「檜舞台」、腰掛け「檜やぐら」、おけ「ヒノキオ」がセット。そのほかにも濡れ縁や収納棚、姿見、ブランコ、ベッドなどのスギ、ヒノキ製品、同じく撥水効果のある桐のトレイ、また若者向けギフトとして人気のうさぎ型一面鏡「ミラうさ」などの製品を開発。ボカシ塗装などアンティーク調の塗装を施した家具、小物なども合わせ、受注製作した商品は約百三十種類を数える。
現在、世羅幸水農園の「ビルネラーデン」で施設の一部を借り、土、日、祝日を中心に直売、観光客にも好評なほか、スーパーの敷地内でも店頭直売を行う。また昨年は全国商工会連合会が主催する展示会やひろしま夢プラザでの物産展、びんご産業市場にも出展、PRした。家具メーカーや小売店にも提案を進めており、同社の大塚社長は「手間のかかる小物製品に特化したいわゆる『すきま家具』。まだ市場調査の段階ですが、攻めの姿勢で販路を拡大したい」と意気込みを話す。
家具業界の低迷から同社も売り上げが思うように伸びないが、「くつろぎ夢図館」での自社製品開発のほか家具の出張修理、別注家具の共同製作など、新しい分野にも積極的に挑戦。試行錯誤ながらも「家具業界のほかに建築業界からも反響がある。増改築などで担当分野を分け合う横の連携を進めていく必要がある。木工の枠に留まらず、異業種との情報交換で活路を見出すヒントを探りたい」と話している。
「文化不毛の福山」という言葉は死語だが、焼け野原となった戦災の影響を思うと、福山空襲は確かにそう言わせるだけの出来事だった。
このほど創立二百年の記念祭を行った義倉は明治四十三年に「義倉図書館」を設立している。福山東町の一角に設置された図書館には、当時五指に数えられる一万四千冊を超える蔵書がそろえられたと言われ、訪れる人を「人類の叡智」という正に文化結集の世界へ導いた。その膨大な知の集積も戦火によって一瞬で灰になった。しかしそれすら福山空襲による戦災の一部に過ぎない。
義倉の祝賀会で同席させていただいた盈進学園の藤井啓造理事長も個人の存在に関わる重要な文化財を失った一人。福山空襲で寺の過去帳が焼け、系図をたどる手がかりがお墓だけになってしまったそうだ。そうした人が福山市内にどれほどおられことか。文化を大切に守って来た人ほど大きな個人文化財を失ったのではなかろうか。
義倉が盈進学園にも寄付などの助成を重ねた理由の一つは、藤井理事長が義倉創始者の河相周兵衛に遺金を託した深津村庄屋の石井武右衛門盈比と代々近くに居を構えていた因縁もあるという。
初めて出会った者同士が「あんたのおじいさんは○○学校へ行ったんと違うかぁ」と話すうちに接点を見出すことがある。地域に根差した文化は、同じグループとして暮らした歴史、たまたま隣人として暮らした歴史など、現在に止まらず、過去にさかのぼって因縁を探る活動で深められ、新たな発展のきっかけをつかむものだろう。個人の因縁をたどる資料はその人にとって国宝以上に重要な財産。図書館、公共施設、お寺、そして民家。戦火は金で計れる財産に止まらず、同郷、同族のよしみをたどる資料の多くを灰にした。その意味で福山空襲は文化不毛と言わせしめる大きな出来事だった。
しかし無から有を生み、新しく築かれるよしみもある。福山の復興へ向けた建設的な活動はめまぐるしいほどの交流を重ね、新しい出会いを生み出し、膨大なよしみを新しく築いている。
空襲で図書館のみならず事務所など多くの施設を失った義倉だが、さらに農地改革によって収入源の義倉田をも失っている。ところがこの苦難に屈することなく、昭和二十七年には女子の教育、文化向上を目的に義倉女学園を設立、役目を終えた平成三年までの四十年間、女子専門学校として新しいよしみを築く基盤を提供し続けた。文化の主たる担い手は女性と言われる現在にあって、五千人を超えた卒業生が文化花盛りの福山を支える大きな役割を果たしていることは言うまでもない。
現在は福祉、教育、殖産分野で活動する団体を助成する事業に転換しているが、農民救済から始まった義倉の精神は一貫しており、かろうじて戦火を間逃れた「義倉発端手続」(河相周兵衛直筆の創設の苦労話や思い出話を集録)に記された創始の精神は、二百年のときを経て営々と息づいており、よしみを結ぶバイブルとして記された言葉通り「萬代不朽」の輝きを放っている。(J)