尾道を写真で散策!
 CD−ROM版尾道の写真集「下手な写真家の千五百枚の写真集 尾道」

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   広島県東部、岡山県西部の経済情報誌
    「びんご経済レポート」の連載紹介

   〜新しい福祉の住環境を考える〜
    「インテリア発介護」  インテリアコーディネーター 池田 真理子
 
 執筆は「弱者のためのコンセプトは全ての人に優しい」との考えから、
 機能性とデザイン性を両立させる新しい福祉商品開発に取り組む井原市の有限会社マリコ代表の池田真理子さん。
 インテリアコーディネーターとして、
 一般住宅、店舗、事務所など生活環境、住環境のプランニングなどに係わってきた池田真理子さんが、
 毎号の連載で生活を構成するさまざまな要素を取り上げ、
 固定観念を打ち破る発想で新しい福祉環境や商品開発のヒントを提案します。
 池田真理子さんが代表を務める有限会社マリコは、床ずれ防止の研究と、
 東洋紡の新素材を組み合わせたインテリアマット「Mariko」などを展開中。

 床づれ防止のインテリアマット「Mariko」 有限会社マリコ
  岡山県井原市東江原町972-1 電話(0866)62−0880   床ずれ防止マットの有限会社マリコのホームページへ

    介助



  護に介助は必要不可欠な行為です。

  

  我家では近くの温泉で入浴介助をしています。



  身体機能をいかに維持し、ベッドから離れる生活を継続させるかは、



  まさに介助の技術が問われるところです。



  高齢になると、動作の多様性も速度も極端に衰えます。



  しかし機能の灯火がわずかでも燃えている間、介助は可能な限り避けるべきです。



  例えば公衆での入浴では第三者の目が入り、じっと見守る間にも「助けてあげたら」と声がかかります。



  しかし簡単な介助の行為が、その後の機能を失わせることは明白ですし、



  このことは体験しなければ理解できません。



  簡単な動作であっても、毎日繰り返すことで機能を維持し続けることができ、



  見守った時間が無駄ではないことを感じられます。



  そのことが世間に認知されなければ、今後も寝たきり人口を増やすこととなることでしょう。



  行き届いた介助でも善意と捉えられる現実があるだけに、



  人としての日常生活のあり方を改めて認識しなおす必要がありそうです。



  介助は薬でもあり毒でもあるからです。



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    がんばる



  んばるという言葉は、励ましで暖かい言葉に思われています。



  「もう少しがんばろうね」「ハイ、がんばって」と声をかけ励ますこの言葉が、



  受け取る側にとって何よりも苦痛になっている事があります。



  人の手助けを必要とする境遇を受け入れようとまず自身を納得させる必要があり、



  そのために弱さや無力を演出しなければならない場合もあれば、



  無力感から自信を喪失して励ましの言葉が苦痛になることも多々あるようです。



  励ましの言葉をもらって素直に喜べる心は幸せです。



  人は他人の気持に踏みこむことは出来ません。



  肯定的な言葉が前進で否定的な言葉が後退とは決め付けられない世界が介護にはあるのです。



  「がんばらなくてもいいのよ」の言葉で救われることもあるでしょう。



  改めて言葉の力や言葉の意味を熟慮する必要があります。



  介護に教科書はありませんが、そのかわり人の心の痛みや悲しみを理解することの難しさを教えてくれます。



  介護を通じての人生勉強は深く遠いものですが、それらを受け入れることで心が磨かれるのです。
 気持



 が家では習慣となっている毎朝の入れ歯磨きですが、



 時々「あー気持が良い」と聞くとありがとうの言葉より嬉しくなります。



 気持を言葉にすることは難しく、伝わりきらないことも多々あります。



 介護に関わって最初に受ける試練の一つです。お互いの気持が錯綜してストレスが生じます。



 ありがとうの言葉一つが感謝の表れのことも、あるいは単に他人行儀の表れのこともあります。



 言葉は発する側と受け取る側の境遇や立場で様々に変化します。



 介護で口喧嘩をする親子がうらやましいと思います。



 「世話をしてもらう」という気持が根底にある関係では、



 言葉はまずうわべのやりとりから始まります。



 「これは介護される側にとって非常に苦痛ではないか」と、



 言葉には出せないジレンマに襲われることもあります。



 そんな時はありがとうの言葉が空しく聞こえます。



 装飾された言葉ではない言葉が行き交うことが介護の基本なのかもしれません。



 毎日同じ事を繰り返すこと、同じ時間を重ねることで、



 少しづつ心が溶け合うのを待つしかないのかもしれません。



 継続で気持が伝わるのも介護の特徴の一つです。



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  障害



 常生活での障害はときに適当な運動と脳への刺激を与えてくれ、



 寝たきりにならないよう導いてくれます。



 義母はベッドでの生活から近年脚力が弱っているますが、



 なんとかトイレに歩いて行っています。



 安全な環境には、床への気配りはもちろん手すり、



 障害物のない動線の確保が当然と思われていますが、



 我が家では敢えて障害のある環境を作っています。



 例えば通路に大きなゴムの木を置いているので通る度に避けて通らなければなりません。



 ぶつかっても怪我をすることはありませんが、大きな葉っぱが体に触ります。



 手すりの途中には花を飾っており、避けなければ花が折れます。



 そしてその障害も時々場所や大きさを変えています。



 義母を観察すると、ちゃんと動作で対応しています。



 時々邪魔になると文句を言っていますが、それを聞くことも楽しいことです。



 高齢者の過剰な世話は機能を失わせる要因になります。



 お互いが継続する関わりを構築するためには、



 機能や思考の訓練に障害のある日常生活を楽しむゆとりも欲しいものです。
 お金



 年「今年お祝い金はなかったの?」と義母が尋ねる敬老の日には、



 赤い熨斗に入った幾ばくかのお祝い金が支給されていました。しかし今年は中止。



 部屋から出ることもお金を使うこともない義母にとって不必要なもののようですが、



 毎年楽しみにしていたみたいです。



 テレビではキャッシュレスの新しい試みが盛んに報道されています。



 近い将来財布がなくなる時代が来るのでしょうか。



 お金は、単に品物やサービスに交換できるというだけでなく、



 沢山の夢や可能性を与えてくれます。



 わたし達は、伝統や慣習を追いやりながら



 便利だけを求めてきた結果、夢をなくしています。



 福祉や介護など、人々の幸せを形にしていく上で守らなくてはならない砦があるとすれば、



 一つは伝統、そしてもう一つは、一見無駄に見える夢や希望の芽を摘まないことではないでしょうか。



 部屋で生活するだけの義母に毎月お小遣いを渡すことが、



 夢や希望を添えることだと気付かされました。



 お金は何よりの元気薬となるようです。



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 子供



 供と高齢者と何処が違うのでしょう。



 子供のようなものだからと介護の日常を納得させようとしますが、



 子育てと違い介護のなかにはなかなか楽しさを見つけられません。



 返ってくる言葉で希望をなくして疲れが増すのが現実、



 使命感だけではできない世界です。



 しかし、福祉施設の充実のおかげで何時でも任せられる心のゆとりもらえますし、



 ありがとうの暖かい言葉からは子育てとは違った充実感を得られます。



 なによりも人と人との触れ合いを深める事ができるのが一番。



 介護は不安の中での苦痛から始まりましたが、



 年数を重ねゆとりを持つこともできるようになり、



 関わりの深さで子育てとはまた違ったものを得られるような気がします。



 子供の方が可愛いのにと憎まれ口を言っていた日々から、



 介護が貴重な体験だと思える日まで随分と時間がかかってしまいましたが、



 人の一生で同じ線上にある始まりと終わりに関われることは幸せです。



 子育てで幸せを感じられるように、



 介護の未来もそうであることが望ましいのではないでしょうか。
  仕事



 齢になる事で失うものはたくさんあります。力、健康、意欲、仕事など…。



 なかでも仕事を通じて関わった社会との接点を失うことは人生の大きな転機です。



 高齢者の生きがいに社会的活動の場所を提供することが福祉政策の一つとして取り上げられていますが、



 そのための組織や場所が形ばかりの福祉になっていないでしょうか。



 社会においては、高齢者であるということで一まとめにした雇用はしません。



 個人の能力こそが活用され、個人の努力や研鑽によってのみその仕事が継続できるのです。



 社会的に能力が認められる世の中こそ、高齢者を人として認め受け入れる社会なのです。



 人が人として最後まで人生を貫くことが幸せなら、老人施設、シルバーで福祉を謳うより、



 社会の受入体制を見直し整備することを優先すべきです。



 福祉は、少し遠回りした方法で整備する必要がありそうです。



 介護の方法論を討議するより先に「介護」を意識しない社会を構築する事の方が先決です。



 自立する高齢者がよって立つ仕事は、自己同一性の確認に関わるカンフル剤です。



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  時間



 が見えない介護に関わって感じるストレスの要因の一つに、時間の感覚の違いがあります。



 朝の同じ三十分で、ぎゅっと中身の濃い介護をしたい介護者と詰めこめない被介護者とのギャップ。



 時計の針は同じように動くのに、力の差なのか立場の差なのか、その差は埋まりません。



 詰めこむ中身はなんだろう、しなければならないことがどれくらいあるだろうと考えたこともあります。



 高齢者の時間に合わせると時間が足りなくなります。



 焦る気持を押さえて義母の時間に合わせてみると、やるべきことが残っても少しだけ顔の表情が柔らかくなります。



 毎日の「ありがとう」の言葉も嬉しそう。



 残した仕事はまた明日すれば良いやと自分に言い聞かせると、



 何故か介護のこつを掴んだような悟りの気分になりました。



 介護はからだの健康維持が原点ですが、忘れてはならないのが心の健康維持です。



 相手の時間に合わせることで仕事が残っても、心が優しくなるなら明日に回せばいい。



 同じ長さの時間を楽しみ、明日のエネルギーを蓄える介護こそ、お互いの心を癒し継続できる介護と言えます。
  



 は夢を持ちます。



 身近で小さな欲求から将来の目標が夢となり、それが生きる目標になります。



 夢や希望という言葉は、前向きで元気の象徴です。



 老いることは、夢を無くすことも要因です。



 体の自由が利かない、病気と戦わなくてはならない、数えることが出来る生の限界…。



 様々な要因が夢を見ることをあきらめさせます。



 「生きとっても迷惑をかけるばかりじゃ」。気丈な義母がそう言うと悲しく感じます。



 まさか介護者にそんな言葉を吐くなんて…。



 夢を無くした人間にとって生きていくことは悲しいことなのかも知れません。



 被介護者には明るく過ごしてほしいというのが介護者の願い。



 元気で明るく生きることにふさわしい夢を見つけてもらうことは、投薬のように簡単にはいきません。



 しかし今日の出来事、趣味、明日の仕事、



 あるいはささやかな日常の中から自分の役割を見つけ存在を確認することから夢は広がるのです。



 寝たきりの高齢者にどんな夢をプレゼントするかを見つけられずに焦る介護者もいるのです。



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 宅介護という言葉ができました。



 高齢者が家族の中で過ごし家族に保護されることの幸せと、施設で過ごすことの幸せは、やっぱり違います。



 家族や家庭に象徴されるものの一つは「愛」です。



 夫婦愛、家族愛、与える愛、許す愛、無償の愛、どの言葉も甘美で人の心を酔わせます。



 しかし家族で介護することを愛と置き換えることは、非常に危険なことです。



 愛は全ての人が求め要求する権利があります。



 介護者に無償で無限に与える心や労力は愛では補いきれません。



 愛も体と共に疲れるからです。



 愛の発信元は同じ人間。泉の如く無限に涌き出るものではありません。



 疲れた体や心も愛を求めます。



 介護を愛や情で処理はできないからこそ、合理的に画一化しマニュアル化が進んでいます。



 しかしそれだけでは人の心は満たされません。



 愛がゆとりをもって涌き出る環境を整えることが先決ではないでしょうか。
  髪



 性の髪型は年齢と共に様々な変遷を重ねます。



  時代の流れと共におしゃれをし始める年齢がどんどん下がって、



  現在では小さな子供までもがおしゃれを意識したスタイルを楽しんでいます。



  豊かな社会の象徴なのでしょう。



  車椅子の高齢者、ホームの高齢者の髪形にはショートカットが多く見られます。



  洗髪や手入れが簡単なこともありますが、制服のようなその形は少し異様です。



  手がかかることを省くことは必要ですが、できれば個性を無くする形はさけたいもの。



  以前は美容院でパーマをかけていた義母の髪は、束ねて三つ編みにしてアップにしてピンで留める髪型にしました。



  人の髪を触ったことが無い自分でもできる、唯一のヘアースタイルです。



  伸びた分だけ切れば良い楽な髪型。毎朝櫛で挿げ、ピンで留めることを繰り返しています。



  これがなぜか義母にとっては食事よりも幸せらしいのです。気持が良いと喜びます。



  時間を省くことと反対のことにチャレンジすると、気持ちを形に変えられる、そんな気がします。
   



 ラオケという遊びは全ての人を主役にしてくれ、世代を超えて楽しめます。



  人前で歌ったことが無い高齢者でも、知っている歌が歌われていると同じように口ずさんでいます。



 歌は不思議です。音楽を聴くことで心が癒され慰められますし、歌うことで楽しさと誇りをもらえます。



 リハビリ中だった父と親戚とで一緒にカラオケに行ったことがありました。



 人前で歌など歌ったことがない父ははじめ、歌うことを拒否しました。



 ところが同年代の叔父や叔母たちが歌うのを聞いて口ずさみ始めたのです。



 父の歌える歌をリクエストしてマイクを渡すと、小さな声で歌いはじめ、



 周りの応援もあって少しずつ声も大きくなっていきました。



 歌い終わって拍手をもらい照れくさそうにしていた父の顔は、亡くなった今でも忘れられません。



  施設の高齢者は、仲間と一緒に歌っている間中笑顔にあふれていますし、



 手拍子しながらお互いの存在を認め合っています。



 歌は自己表現の手軽な方法であり、生きることに元気と心のビタミンをくれる栄養剤なのです。
   ぬいぐるみ



を重ねた成人がぬいぐるみの人形や動物を大切に可愛がると少し驚かれるかも知れません。



 「かわいいものは子供のおもちゃ」という概念が人の心のどこかに潜んでいるようです。



 ぬいぐるみの質感から得られる柔らかさ、暖かさに加え、抽象化された形の愛玩物は、



 手と目を通し子供のみならず大人の心をも癒してくれます。



 かわいい物をかわいいと素直に愛しむ心を出すことで生きる事を楽にする効果があります。



 我が家も義母の誕生日にはぬいぐるみの動物を選んでおり、受け取る時はいつもにこにこ。



 そして必ず部屋の片隅に飾ってくれます。



 またベッドの傍らにあるネズミや兎、猫のぬいぐるみには、



 義母だけでなく訪れる人も「かわいいね」と会話を弾ませ触ってくれています。



 介護の時間に失いがちなものがあるとすれば、



 それはこれまで「無駄」と考えられてきた時間や物ではないでしょうか。



 限られた空間の中で必ずしも必要とはされてこなかった遊びの心を増やすことで、少し楽に時間を過ごせます。



 もの言わぬ優しさで大人の心も癒してくれるのがぬいぐるみなのです。



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   指輪



は装飾品と称して様々な物で身を飾ってきました。



  異性を惹き付ける生殖行動の一つ、見栄、無意識の欲求表現、古来の風習など、



 その真意はそれぞれですが、不必要な必要的存在として指輪もその一つだと言えます。



 シミや皺の手に輝きも形も変わらず光りつづける指輪は、



 装飾という意味合いを超え、深みを増した存在になっているようです。



 在りし日の夫婦の絆、出会いの記念などその存在感は大きいものです。



 ベッドに寝て過ごす義母の指にも指輪が光っています。



 家族でさえその存在を忘れている指輪を義母は一人で指から外し、納めている姿をふと見ると、



 ベッドでの長い一日を慰めてくれる過去の思い出がどれほど貴重で生きがいになっているかを知らされます。



 介護に関わると当面の対処に追われ、ともすれば生き様や過去の思い出を疎かにしてしまいがちです。



 指輪一つに込められた思い出の宝を引き出す事で、



 優しい言葉よりも、手厚い看護よりも、心を癒す薬になるのです。



 人としての輝きを放つ、一個の指輪を大切に見守る事も、大切な介護だと感じました。



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  カーテン

 ーテンはアルミサッシの普及で日本の住空間に浸透しましたが、

 それまでの開口部装飾の代表は障子と暖簾でした。

 障子は、他の自然素材と組み合わされ日本の住環境に欠かせない湿度の調整をし、

 暖簾はその動きによってリズムと風情をかもし出していました。

 現在日本の住宅は洋風化し、カーテンがそれらに取って代わりました。

 装飾を選択する目安としてはお洒落さや価格に目を向けがちですが、

 本来の目的は湿度調整とプライバシーの保護です。

 暖簾や障子の生地の風合いや色柄から得られる癒しの効果も見逃せません。

 高齢化社会の住空間にカーテンの効果を最大限に活かす方法があります。

 それは四季により色柄を変えること、

 現代の科学技術の恩恵を受けた高機能素材の利用による消臭、吸湿、湿度調整機能を活用することです。

 住空間に占めるカーテンの面積は大きいものです。

 動く範囲が狭くなる高齢化環境に、インテリアで動きや季節を演出することが心への栄養補給につながります。

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 が単にインテリアのアクセントや演出の素材見なされる現状を危惧しています。

 わたし達は価格、便利、機能を旗印に発展した産業で溢れかえるモノの陰で、

 沢山の貴重な財産を失いつつあります。畳もその一つです。

 足の裏から伝わる素材感の違いや畳のかもし出す癒し効果、

 また空間の開放感が人の心に及ぼす影響を証明する学者はあまりいません。

 畳の持つ吸湿性、弾力性、素材感が与える好影響を早急に明確にし、

 高齢化が進む日本の住宅への必要性を改めて見直すべきです。

 また高齢者が抱く歩くことへの不安から段差の解消が叫ばれていますが、

 歩く訓練やその楽しみが心に及ぼす効果は表面に出てきません。

 床より優しくあたたかい畳こそ素足で歩くことができる素材であり、

 心地よい空間を構成する要素のひとつなのです。

 伝統とは単に受け継がれただけのものではありません。

 伝えるべき理論や効果、必要性があるからこそ先人はさまざまな思いを込めて守ってきたのです。

 高齢化を迎えた今の時代こそ、日本の知恵や文化、そして畳を見直すチャンスなのです。

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  音楽

 がいたICU(集中治療室)での事です。

 麻酔からの目覚めがないまま管に繋がれた体の父の枕もとに小さなラジカセが置いてあり、

 常にラジオの音楽が流れていました。

 看護婦さんの心配りに感謝、父の病状もいくらか癒されるような思いでした。

 音楽が人の体や心に与える効用は衆知の事実ですが、ICUでも実践されていました。

 人は生きるために沢山の宝物を創造しますが、それは五感で感じる芸術です。

 耳のための芸術である音楽は、どれほど人の心を優しさや癒しや平和へと導くことでしょう。

 音楽はあふれんばかりの音とリズムで成り立ち、嗜好もまた人それぞれ。

 素朴な民謡や子守唄からロック、オペラなど…。

 ひとの人生も何らかの音楽を体現しているのかもしれません。

 さて、音楽療法は与えられるものではなく選ぶものであるというのが私の考えです。

 看護婦さんのラジカセは父がある時演歌に反応したからだそうです。

 誰もが好きな音楽、好きな一曲を言える事も満足して生きるための宿題なのではないでしょうか。

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 内から風が消えました。

 高温多湿が特徴の日本の住環境の中で気持ち良く住むには、自然素材の多用と風の力は必須でした。

 空気の流れによって湿度を調節し、

 細菌の繁殖を防ぎ自然の声を届けてくれる風は自然と共存するための知恵でした。

 現在の住環境は自然と隔離することによって「新たな快適」を求めようとしているように思えます。

 技術と産業の発展で、生活に有効な成分や風を機械的に作りだし、

 一見快適な住環境を築いているように見えます。

 一年中温度も湿度も変わらない快適な空間が文化であり、発展だと誰もが信じて疑いを持ちません。

 しかしわたし達は心を癒すために自然に身を任せることを止めることはできないのです。

 暑さも寒さも楽しみ、風に耳を傾け昔話を聞きたがります。

 住空間で感じられる自然の風をなくしたわたし達は、

 時間やお金を使って風を求めてさまよい続けています。

 部屋の窓を開け、

 早朝の小鳥のさえずりや夕方の騒音を風とともに楽しむ時間を過ごせる空間が快適な介護の空間と言えます。

 人の心が帰るところは自然の懐。自然は楽しむためにあるのではなく生きるためにあるのです。

 風は全ての人生の応援歌なのです。

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  靴下

 下は新しい文化として浸透するのに時間はかかりませんでした。

 強い、薄いが特徴のナイロン文化とともに浸透し、草履文化や足袋の存在を危ういものにしています。

 私たちは便利で手軽なことに最も賛成し、産業を発展させ生活を豊かにしてきましたが、靴下の繁栄も同様です。

 確かに価格、手軽さ、強さ、おしゃれ、どれ一つをとっても足袋は靴下に勝てません。

 しかし足袋を失った日本人は、実は大切なものも同時に失ったことに気付いていません。

 例えば指を分けて履く足袋のおかげで、木綿を通して土に伝わる足の力が強まり、日本人の足は健康を保ってきたのです。

 残念ながらソックスで指を一体化する現代では、指それぞれの力が減退しています。

 素足で地面を踏むことが健康につながるのはもちろんですが、現在の環境ではそれも不可能です。

 高齢化時代を迎え、単に目先の消費を促す傾向から、

 受け継がれた文化を見なおし根底に流れる機能や健康面から選ぶ時代が来ています。

 足の機能を弱める靴下は、誰もが疑問を感じない文明のエイリアンと言えるかもしれません。

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  絵画

 日などに美術展に行くと数えきれない善男善女が集っています。

 家庭でも公共施設でも絵がかかってない壁の方が少ないくらい、絵を飾ることが生活に密着しています。

 しかしよく見ると、埃をかぶったままだったり、季節外れだったり、傾いていたり…。

 恐らく半数以上の人は「絵があるから」という理由だけで飾っているように思えます。

 八十歳を過ぎて絵を習い始めたと言うステキなご婦人に出会いました。

 その絵はカラフルで素朴で何より生きていました。

 絵を描く時間は最高の幸せだそうです。

 またこの年で初めてじっくり見た花があるともおっしゃいます。

 教室には最近の傑作が誇らしげに展示してあります。

 絵は単に鑑賞するためではなく、これからは自己表現の一環として多いに活用してほしいと思います。

 高齢者も、絵を描くことで自己主張し、他人の作品や景色、物を見る目を養い、

 さらに自主的に絵画を選択し、またその時間や空間を楽しんでほしいのです。

 日常生活の片隅にひっそりしている絵に心を注ぐ、

 あるいは対象を絵に描くという些細なことから生活が潤い、生きがいが生まれるからです。

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 はエンジンです。

 常にガソリンである元気を補給し、オイルのいたわりで調整し、

 常時動かし続けることで維持される機能です。

 脚の構成部位どれひとつ欠けても動かなくなり、そのトラブルで寝た切りになる事例が後を絶ちません。

 脚が弱った場合、動かすことを止めるとますますその機能を失います。

 年齢を重ねるたびに発生する可能性が大きくなるのが脚のトラブルなのです。

 補助用具を使っての歩行で脚の機能保持に努めることは、健康を保つ重要な要素です。

 自己の尊厳を守りながら生きるために必要なことの一つは、自分の脚で歩くことだとも言えるでしょう。

 過剰にいたわり保護するための設備や補助具は不要ですが、

 身体機能を維持し訓練をするための補助具は多いに活用したいものです。

 利用することで活動範囲が広がり、運動機能を回復する補助具の開発もっと推奨されるべきだと考えます。

 ひとの知恵の産物である車椅子も、いろいろな機能が付いた最新式のものが開発されていますが、

 どんなに進化しようとひとつの用具に過ぎません。

 用具には心と言うスパイスを添えると暖かくなります。

 それがこれからの課題と言えます。

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  ハンカチ

 ンカチが消えようとしています。

 使い捨てのペーパーが手軽さと便利さでハンカチの役目を代行しています。

 ハンカチは文化です。

 ポケットやバッグに忍ばせる気配り、さまざまな場面で活躍する機能性。

 オムツを交換する際に、着古し柔らかくなった下着や浴衣の木綿で作った小さなハンカチは、

 お湯に浸し体を拭うのに最適です。

 丈夫で優しいからです。何より準備した心まで伝わりそうです。

 そのまま廃棄しても、最後まで役に立った古着の切れ端からは、

 エッヘンと自慢している声すら聞こえてくるようです。

 布には紙では代行できない優しさや暖かさがあります。

 その原点であるハンカチの文化を介護で生かすことは手軽で簡単にできます。

 口元を拭うカラフルで楽しいハンカチ。ベッドの周りに何枚か準備するだけで良いのです。

 洗濯機の中で見失いそうになる布・ハンカチは、介護する人の心を伝える伝書鳩です。

 介護は継続です。無理のない優しさは小さなことから生まれてくるのです。

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  オムツ

 の自由が利かなくなった時の一番の心配はオムツのようです。

 生きることはさまざまな行為から成り立ちますが、

 無残にも自力で排泄できなくなることが、人としての尊厳をどれほど損ねるか。

 その思いは体験しないと理解できないでしょう。

 先人達は着古した浴衣や木綿でオムツを仕立て、洗濯して使いまわしました。

 汚物を受け止め処理すること、これを一貫して行うことが介護でした。

 紙オムツの普及が進んだ現代では、昔と比べ人の手を煩わす行為が半減し、

 介護者の肉体的、精神的な負担が軽くなりました。

 紙オムツの便利さは確かに評価されるべきですが、

 産業や科学の進歩により豊かな生活を得たわたしたちは、同時に思いやりの心を忘れ去ろうとしています。

 その思いやりを昔ながらの布オムツの感触で受け継ぐことは可能です。

 オムツの進歩は新しい産業と同時に新しいゴミをも生み出しました。

 「便利」か「感触」か、オムツに対する心の持ちようでも、被介護者への思いが伝わるのです。

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 当て、手伝い、手当たり、手合わせ、手荒いなど、手は人の体の中でも大活躍する部位です。

 心を伝える手段として目や口より重要な役割りを果たすことさえあります。

 家庭介護が困難な一因に手がかかることが挙げられています。

 時間の束縛や体力的な困難など、自由な時間を多く手に入れた現代の生活では「苦痛」と捉えられるからです。

 苦痛を解消するため代行してくれる施設や人に任すことさえあります。

 しかし手が人とのコミュニケーションを果すことを意識すれば、介護生活はもっと潤い楽しいものになります。

 医師の手は魔法の手です。診察する手は、患者の体に触った瞬間に安らぎを与えるからです。

 介護でも同じことで、手で触れ合うことで心までも繋がるのです。

 完璧な家庭介護を目指すと苦痛になるので、少しずつ手を触れる時間を増やすことで日常生活に溶け込ませましょう。

 手がかかる介護ではなく、手をかける介護を目指せば、弱る速度と正比例して手が増え、ぬくもりがより伝わります。

 口よりも正直に心を伝えてくれる手。常に清潔で、柔らかくしたい体の一部です。

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  ファッション

 齢者のためのファッションショーが各地で開催され、カラフルでおしゃれ、華やかな空間になりつつあるように見えます。

 装おう喜びのために時間やお金をかけることは人が人として生きるため最後まで継続すべきです。

 高齢者人口増加の割合からシルバー市場の有利性が騒がれて久しく、

 介護用品のショップや施設の整備は眼に見えて変化を遂げています。

 しかし高齢者用のファッションスペースは相変わらず拡大の兆しを見せてはいません。

 一日中寝ていることが多い単調な日常を変化させ、明日への希望をつなげようとするとき、

 毎日の洋服は手っ取り早いツールのはずです。

 しかし高齢者のための洋服は相変わらず片隅に追いやられたコーナーに、

 何年も前から変わらない色柄やスタイルで並んでいます。

 高齢者のファッションショーを単なるイベントに終わらせないために必要なのは、

 新しい法律や施設ではなく毎日を生きるための夢を作りあげることではないでしょうか。

 そのために最も手短なファッションこそ、寝たきりにならないための妙薬なのです。

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 に関する要望を聞くと、既製品では間に合わない問題点が浮き彫りにされます。

 自分自身でさえ、満足できる靴を選ぶ術を知らないことに気付きます。

 健常者による購入基準の大半はデザイン、色、価格です。

 障害者や高齢者の場合最優先されるのは履き心地や重さであり、自分の脚に合っているかどうかになります。

 まずは靴の機能が最優先、次に色、そしてデザインや素材というふうに絞っていくことになります。

 ユニバーサルデザインが注目されているのも、商品作りの根底がまさにそこにあるからでしょう。

 ものの機能やデザイン、楽しさは、全ての人に必要であり、それを享受することは平等に与えられた権利でもあります。

 大地を踏みしめるための靴は人が歩くこと、進むことの応援隊です。

 靴にもっと心配りをすることで、もの選びの選択眼を養いましょう。

 長年かけて培った靴作りの技術とさまざまな要望に耳を傾ける姿勢こそが、新しい靴を生み出します。

 靴は元気の出発点です。

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  階段

 段での死亡事故が後を絶ちません。

 プランの段階では危険性を予測しにくい面もありますが、

 階段は「単なる通路」としてしか捉えられておらず、重要な空間として意識されにくいという現実もあります。

 手すりの普及は高齢化社会の恩恵かもしれませんが、

 階段を「移動に不便で危険、しかも体力を必要とする通路」という捉え方をする限りでは、

 手すりやリフトの設置で問題が解消したかのような錯覚に陥ります。

 リハビリに簡易な階段が使われています。歩く動作に昇降を加えることで機能回復を目指すものです。

 日常生活する空間である住宅において、予測できる不便の改善や、安全追及だけが高齢化のための準備ではありません。

 階段は、危険防止の処置を施しながら、

 健康維持のために体力を強化し神経を訓練する場所として有効活用できるのです。

 現状を否定するより活用する意識が日常を有意義に楽しむコツです。

 健康や肉体の機能のありがたさを失ってから気付くより、失わない意識で暮らせば、住宅の全ての場所に光が当たります。

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  化粧

 粧について私たちはいろいろな価値観を持っています。

 身だしなみ、戦うための武器、仮面など…。

 さまざまな思いで鏡に向かい顔をつくろう作業は、

 女性の義務でも仕事でもなく、楽しむための時間かもしれません。

 自分の人生を主人公として演じるための準備でもあります。

 日常の生活に他人の力を必要とする人生であっても自分が主人公であることには変わりありません。

 介護の項目に化粧が加わるのはいつのことでしょうか。

 入浴、食事の世話、オムツの交換などの介護項目の前に化粧を加えて欲しいという考えは、

 仕事としての介護を知らないからと言われるでしょうか。

 嫌がる素振りをしながらも化粧を許した義母は、

 人影が見えなくなった時ベッドから起き上がり、嬉しそうに手鏡を見つめていました。

 自分のことが周りに認められた時、自分の生きる場所も時間も見つけられるのではないでしょうか。

 化粧は人生という舞台で映えるのための演出であり、心を元気にするビタミン剤です。

 心の介護は日常生活の中に隠れているのです。

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  寝室

 本の寝室は元来プライベートな空間ではありませんでした。

 川の字になるという言葉があるように家族が集合し、

 夜の帳が静寂と安心を与え睡眠という行為を保護した空間でした。

 そしてその空間は、寝具を収納することで、居間や食堂に変身しました。

 「寝室」という概念が世間で浸透し始めたきっかけは、

 公団住宅でのLDK生活と、一般家庭でのベッドの普及です。

 寝室は、「プライベートの確保」という大義名分で瞬く間に広がりました。

 家族が生活する場所である住宅にプライベートが必要かどうかという議論もあるでしょう。

 ただ、高齢化とともに睡眠の時間にまで人の手助けが必要となったとき、その場所は寝室に限定することはありません。

 それは日当たりの良い場所であったり、居間であったりしてもいいのです。

 人の手助けを必要とする生活において「プライベート」は解消せざるを得ません。

 自由と孤独、融合と束縛。

 人は限りなくわがまな動物なのかも知れません。

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  玄関

 合住宅の場合は入口に、施設になると風除室やホールになる玄関の根本的な役割りは何でしょうか。

 それは、外出のために通過する場所であり、安全を求めて帰る扉であり、

 心のネクタイを締めたり緩めたりする場所です。

 バリアフリー住宅が議論され始めて、玄関の存在がクローズアップされました。

 それは車椅子で入るための段差の解消であったり、通路の拡幅でした。

 スロープやリフト、段差解消で機能面の不自由さはクリアされましたが、

 それに変わって失われようとしている大切なことがあります。

 それはゆとりある生活のための「ひと呼吸」や「けじめ」です。

 家が人の安全を守る存在なら、

 玄関は機能以外の「心」にとって大切な場所としての価値を認識しもっと有意義な空間作りをしなければなりません。

 玄関は毎日の生活の中でほっとひといき、ひと呼吸するための場所であり、「外」と「中」を分けるけじめの場所です。

 無駄な空間や行為にこそ人は心が休まるものです。

 玄関には人の生き方が顕著に表れます。

 人を迎える心を表現できる最高の舞台と言えるのではないでしょうか。

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  居間

 築の住宅に居間(リビング)があります。

 部屋の大きさや家具など様々な要素が要求される空間ですが、

 「何かが足りないのではないか」という思いがいつもあります。

 くつろぐためのソファーや、楽しむためのテレビはあるものの、形だけの居間になっている気がします。

 太古の昔、人々は火を囲んで暖を取り命を育み、家族が集まりました。

 火は生きていました、

 その火を守る場所こそ、みんなが集う場所であり、命を育てる場所でした。

 文明が進み、人は沢山の道具という便利を集め、安全な場所を確保したため、火を守る必要が無くなりました。

 安全な場所での生活が、人の居場所を拡散させたと言えるでしょう。

 プライバシーを確保するという名目で人は自由を得、その反面孤独感が増しました。

 生きた火が無くなった居間はもはや、人の心を惹きつけることはできません。

 火の替わりに、居間の求心力が我が家のおじいちゃん、おばあちゃんと家族が考えたら、きっと家に魂が入ります、

 そんな高齢化社会が望まれます。

 高齢者を中心とした住空間は家族にとってもやさしい、

 そんな考え方がユニバーサルな心に繋がるのではないでしょうか。

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  台所

 所から包丁とまな板が消えようとしています。

 自由が利かない体になった人が望んだこと、それは自分の手でりんごの皮をむいて食べたいということでした。

 それを叶えるため、様々に工夫された包丁が開発されてきました。

 食べるという行為は命を育むこと、料理を作る台所はその源なのです。

 しかし私たちは便利という名の下、様々なものを失ってきました。

 インテリアにおいては機能、寸法、色、動線などが最優先されますが、

 その前に大切にしなければならないことが台所にはあります。

 それは、作る楽しさから始まる食事の時間です。

 食事は、単に食欲という生理的欲求のみならず、心を養う重要な行為であるということが忘れさられがちです。

 台所には料理する、食物を保存する、食器を洗う、整理するなど、様々な行為が集約されており、

 それは生活そのものだと言えるのではないでしょうか。

 素材の吟味とレシピの創意工夫、家族に供し器を洗い、明日の命を養う場所。

 これらのキーワードはそのまま介護にも当てはまります。

 笑顔の料理人を主役に、家族を養い命を育む舞台、それが台所です。

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  トイレ

 きることに欠かせない生活空間にトイレがあります。

 高齢化社会になって改めてその存在感が大きくなったことは喜ばしいことです。

 位置、機能、面積、装飾の面からもっと重要視すべき空間です。

 位置については、換気と配管の必要性から外回りに配置される場合がほとんどです。

 また窓をつけることで、狭い空間から圧迫感を取り除く効果も見逃せません。

 手すりを当たり前とする風潮が出てきていることも進歩です。

 お尻を水で洗浄するトイレ設備は元来弱者のために生まれた機能であり、

 今では一般市場に大きな位置付けをしています。

 トイレは福祉最前線のスペースといっても差し支えありません。

 排泄は、人が人としての尊厳を守るために可能な限り自分の意思で行いたい行為の一つです。

 またトイレは無防備になる場所でもあります。

 トイレという空間と行為が人の生活や心を自立させるバロメーターになっています。

 これからのトイレに求められるものは、機能性に加え、心を守る優しさかもしれません。

 優しさの演出は、いつでもできることだからです。

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  浴室

 室の留意点は、

 段差の解消、手すり、温度管理、移動の設備、水栓の高さ、浴槽での滑り止め、シャワーチェアーなど。

 どれも心と体の健康維持のために重要な要素です。

 家の外にあるお風呂の効能も見逃せません。

 義母がかつて我が家のお風呂に入ることを拒否したとき、近くの温泉に行くことにしました。

 それまで一日寝て過ごしていた義母が喜んで起き上がり、車に乗る唯一の家族の外出タイムとなりました。

 耳は全く聞こえませんが、小さな子どもに話しかけたり、

 同年輩の人に話し掛けられると適当にお喋りするなど、とても楽しそうです。

 そのあとの外食も楽しみにしているらしく、普段よりもよく食べます。

 義母にとってお風呂は、私たちとの家族の確認行為であり、見知らぬ人との出会いの場となったようです。

 入浴は心の疲れを癒します。

 広いこともお風呂に向かわせる要因ですが、浴室の広さや場所の好みは個人によって様々です。

 機能や効率、危険防止のみを考えるのではなく、

 入浴という時間をどのように演出するかを考えると、新しい浴室空間の発見につながります。

 それを家族と一緒に見つけられたら素晴らしいことだと思います。

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  食卓

 ンテリアもテーブルコーディネイトまで発展して、華やかな食卓が演出されるようになりました。

 食器にこだわり、花をあしらい、食事に沢山の演出が入り、楽しむことができるようになりました。

 様々な小物も取り入れられ、

 ランチョンマットやテーブルライナー、ナプキンなど、日本の食卓に新しい文化ができたといっても過言ではありません。

 日本の食卓には「ご飯」という食文化の中でなくてはならないものとして茶碗があります。

 茶碗だけは個人のものが決められています。

 お食い初めから始まったその人だけの茶碗が、家族の中での存在でありその分身でした。

 その延長で考えれば、お葬式に行われる茶碗割りの儀式は、家族からの別れを意味するものでしょう。

 そこから導き出されるのは、個人の茶碗に込められた家族への思い、そして食卓を囲む仲間としての家族の存在です。

 家族の誰かがベッドでの生活を余儀なくされる生活になったとき、

 時には家族がそれぞれの茶碗をベッドに持ち寄り食卓を作れば、

 それがどんな豪華な食器や花にも負けないテーブルコーディネイトになることでしょう。

 食卓は心とともに移動するのです。

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  ペット

 母は猫が嫌いです。

 仏壇のお供えをひっくり返し、食卓の魚を盗んだ猫を、

 元気な頃の義母は追いかけ回して叱っていました。

 寝たきりの生活になっても猫が嫌いなことに変わりありません。

 ベッドに座って身の周りの世話をしてもらっているときでさえ、そばに来た猫を足で追いやる動作をしていました。

 最初は猫を部屋に入れないようにしていましたが、

 それでも入って来る猫を追いやろうとする義母の声に「力強さ」「元気さ」を感じられたのです。

 嬉しさとともに、頼もしささえ感じられるようになりました。

 猫は、義母が唯一高圧的に接することができるという意味で、

 義母の心をいくぶんか奮い立たせる存在だったのでしょう。

 ペットは愛らしさや感触、従順さで人の心を癒します。

 そのうえ、人間に比べ知恵が少ないことでより多くの愛をもち、

 私たちの我ままや身勝手を受け止めてくれる、偉大な存在のように思えます。

 猫を叱ることで元気を蘇らせる義母を見ていると、

 沢山の使命を帯びてこの世に生を受けた「ペット」という動物は、

 人間にとって最高のプレゼントかもしれない、とも思えるのです。

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 は静かです。

 時には邪魔者扱いされることもあります。

 しかし、人が住まううえで一番重要な要素として存在していると言っても言い過ぎではありません。

 内と外を仕切り、自然から身を守り、心に安心感を与えるのが壁です。

 人にはそれぞれ自分に合うテリトリーがあります。

 畳一枚の広さが一番落ち着く人もいれば、何十畳という広さを要求する人もいます。

 しかしどちらにせよ、壁なしでは生きていけません。

 中でも、人が無防備になる場所ほど壁が必要になります。

 トイレやお風呂が狭いのは、物理的な面以外の安心感を与えられるからです。

 壁は人間の防衛本能を最初に満たしてくれます。

 介護の中での壁は頼もしい存在です。

 例えば、仕切りとしてプライバシーを保護してくれたり、そこに絵を飾れば心を癒してくれたり…。

 あるいは、どんどんと叩くことで高まった感情をぶつければ、それ耐えて憤懣を受け止めてくれます。

 動かない、主張しない、もの言わぬ壁は、住まうことに最も重要な要素であると考えます。

 壁に寄りかかると思わぬ力で跳ね返ってきます。

 壁は、それが人の命の存在感だと教えてくれているのです。

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  無駄

 ンテリアには「生活の効率」が最優先されてきました。

 限られた予算とスペースで、動線を減らし新しい空間を創造することが求められました。

 空間の無駄は贅沢、動作の無駄は不便、時間の無駄は効率が悪いなどと否定的に判断され、

 無駄を減らすアイデアや工夫がもてはやされました。

 つまり時間や空間を「効率的に」利用することで、新しい場所や時間を創造してきたのです。

 次に新しい時間、空間は家庭の外へも求められました。

 外へ向かった家族は、少しずつ心も離れ、自分だけの時間を大切にし、自由を楽しむようになりました。

 家族に自由を束縛されない生活こそが人間の自然な生き方である、という認識さえも当たり前のようになってきています。

 昔は時間をかけて作っていた食事も今はコンビニで安価で買えます。

 家庭で行っていた介護も、施設やお金で解決できるようになりました。

 生活における無駄な時間や空間は、生きること、生活することへの応援歌だと考えてみませんか。

 小さな無駄を受け入れることが大きな愛を生み、

 無駄だと思っていたことを楽しむことが、家族の絆を確認するきっかけにもなるのではないでしょうか。

 家庭介護の時間が「無駄な時間」と捉えられるような社会にだけは、なるべきではありません。

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 というものが生活の中から消えようとしている気がします。

 装飾のリボンや機械で自動的に締めるテープが取って代わり、

 結ぶことを知らない文化に近づきつつあるのかもしれません。

 私たちは、便利で早いリボンやテープを利用することで、紐が築いてきた伝統や文化を見失おうとしています。

 体力が無くなってベッドでの起き上がりが困難になった義父が希望したのは、ベッドの足元に紐を結ぶことでした。

 古着の布を裂いて編んだ紐を両手で引っ張りながら、必死で起き上がろうとしたのです。

 その姿を見て、思わず手を貸して背中を押しました。起き上がる、という動作に協力することができました。

 紐は必ずしも介護に有益な素材ではないかもしれませんが、

 紐を活用して起き上がるということは義父の生活の知恵から出た方法でした。

 寝る生活を余儀なくされても、自分で工夫する心を持つだけで回りを元気付けてくれます。

 今、義母のベッドに結んだ紐を見るたびに、一本の紐を大切にしたい気持ちになると共に、素朴な生活の心を教わっています。

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  ロボット

 十一世紀の高齢化社会に極光を浴びて育とうとしているのがロボット産業です。

 ロボットの原型は家電で、掃除機、洗濯機、炊飯器など違和感無く日常生活に溶け込んでいます。

 人や動物の形をして、自ら考え行動する機能を持った機械が、これからの生活に溶け込む日常もそう遠くありません。

 人の欲望はとどまることを知りません。

 言葉ひとつでロボットを思い通りに動かせる生活が、人類の目指す近未来のロボット社会なのでしょうか。

 ロボット開発に関わる人達は純粋で夢を持った優しい人たちですが、

 高齢化を理由のひとつとして促される科学の発達が、必ずしも良い結果を生むとは限りません。

 確かに、未来社会を象徴するロボット社会は、人の便利を満足させ余暇時間が拡大されます。

 しかし同時に人同士の絆や生の触れ合い奪い、運動量を減らし、

 ますます軟弱な肉体を量産しているのではないでしょうか。

 便利、進歩、発達こそが「正しい」ことと思われ、求められる社会では、

 そのことに対し誰も疑問を持たないばかりか、それを止めようとする勇気さえ生まれません。

 介護の方法に正解はありません。

 科学や技術や進歩など「正しい」と思われることを優先させて加速するロボット社会。

 私たちは、そんな社会を安易に求める生活を見直してみる必要があるのではないでしょうか。

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 は、テレビの黄門様が杖をついている姿を違和感なく見ています。



 実際に彼の姿を介護や高齢を結びつけて捉える人は少ないと思います。



 それはきっと、彼に権力があってお供がいることで「高齢者」「弱者」には見えないからでしょう。



 人は立つことを憶えた瞬間から、二本の脚で体を支えて生きることへの試練が始まります。



 その長い人生の中で杖は重要な役割を演じます。



 例えば杖は、一本の支えとなり、前に進む行為を補足します。



 歩き疲れた時重宝します。



 あるいは、上半身を支えることを補うことで脚への負担を軽くして疲労を和らげてくれます。



 「杖=介護用品」という堅苦しい認識を「杖=生活用品」という認識に改めたら、



 もっと介護そのものが世の中に溶け込み身近になるのでないでしょうか。



 人は杖に頼る時間を作ることで、もっと優しくなれるのではないでしょうか。



 杖を傘のように生活必需品としてどこの家にも常備したら、



 杖はもっとおしゃれになり、杖に頼る生活にも違和感なく溶け込めるのではないでしょうか。



 介護は全ての人に共通する、高齢という人生の季節です。



 杖は季節の壁を取り除く大切な道具かもしれません。



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  ことだま



 護空間としてのインテリアは、たくさんの目に見えない大切な要素で構成されています。



 例えば音、風、光、空間…。その中で言葉ほど重要なものはありません。



 言葉は生き物です。



 言葉には魂が宿ります。



 それが「言霊(ことだま)」という考え方です。



 言葉一つで人は幸せになったり、心を病むこともあります。



 同じ言葉でも受け取る相手によって心地よくもあり、また悲しくもあります。



 多くのことを許すこと、それが愛かもしれません、



 しかし人の愛には限界があります。



 コップの水があふれるように、受け止めきれずに許すことが出来ない時もありますし、



 年齢によってその傾向が強くなるということもありえるでしょう。



 人を許すということで愛を表現することが年齢的に苦手になった時は、



 他人からの愛をも受け入れにくくなります。



 毎日の生活の中で、人を明るい気持ちにさせる言葉、人を幸せにさせる言葉、



 真実の言葉を発することを心がける事は、介護の季節を迎える準備につながることだと思います。



 「おはよう」「ありがとう」。



 言葉の塊は、いつかめぐって自分に帰ってきます。



 人類の平和は案外簡単に作ることが出来ます。



 それは幸せな言霊が行き交う社会です。
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  ベッド

 ッドは「介護の主役」に君臨しています。

 確かにベッドの生活は、機能が衰えた人にとっては立ち居振舞いの助けとなります。

 しかし、ベッドの高さは、立ち上がりを容易にしてくれる反面、

 床より高い場所で寝るということで精神的な不安の要因にもなりえます。

 かつて日本人は、夜、寝具を準備することで一日の終わりと安息への準備をし、

 朝が来て押入れに収納することで一日の生活を始める、というけじめをつけていました。

 便利になること、楽になることで失ったものはけじめと運動量です。

 人の心も体もベッドの生活に慣れてしまい、気が付かない間に機能の衰えを促進していることに気が付かないでいるのです。

 日本人は、日本人の背負った風習や先人の知恵をもっと生かすことでベッドから離れる介護、

 いわば「日本人らしい高齢化社会」を築けるのではないでしょうか。

 便利であるというだけで私達が取り入れてきた様々な生活用品が、

 実は私達の機能を弱め寝たきりに近づけている、という現象にしっかりと目を向けた上で、

 介護用品を選択し、自分だけの生活スタイルと介護生活を作り上げることがこれからの課題だと考えます。

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  観葉植物

 ンテリアをプランする際、観葉植物がその仕上げとなります。

 観葉植物は、人のいない無機質な図面上の空間で、

 それぞれのパーツを結び付けてくれ、引き立たせてくれる不思議な役目を果たしています。

 植物がもつ自然な造詣やいきいきとした発色には、

 どんなアーティストもかなわないほど、同じ空間内のデザインや色に溶け込む力があります。

 光を通す色、生きている形、それは単にインテリアのパーツとしてではなく、

 私達との共存を通して、実生活にも大きな影響を与えてくれます。

 また逆に、私達と一緒に育ち成長することで、インテリアも深みを増していきます。

 介護の空間は、清潔、動線、安全、効率と様々なキーワードで構成しなければならない、といった考え方があります。

 その空間に取り入れられた一本の花、一鉢の植物は、目に見えないゆとりや安らぎを、私達に与えてくれます。

 無駄を省くことは正しく必要なことですが、

 効率性重視で発展してきた経済社会の中で心のゆとりをなくしてきた私達にとって、

 これから必要なのは、まさに無駄な空間やものではないでしょうか。

 介護者、被介護者をとりまく空間で、それぞれの個性を結び付けたり引き立たせてくれるという意味で、

 介護は私達人類にとっての一鉢の観葉植物である、とも言えそうです。

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  炬燵

 近、冬に炬燵を出す家庭は少なくなってきました。

 炬燵は不衛生である、という考え方からだと思われます。

 炬燵に座ることで動作を緩慢にすることは、私が考える介護にとっては否定すべき生活でしたが、

 ふとしたきっかけで義母の部屋に炬燵を出しました。

 すると一日のほとんどをベッドで生活する義母が大喜びしました。

 足が温かいのはもちろんですが、なによりも家族が炬燵に集まりだしたからです。

 足を暖める以外に、義母の心も以前より温かくなったようです。

 彼女が感じていた寂しさを和らげるために何をしたら良いのかを考えてはいたのですが、

 炬燵がこれほど効果があるものとは思いもよりませんでした。

 炬燵は不思議な存在です。

 小さな空間に閉じ込められた暖かさには、人を呼び戻す、人と人とを結びつける力があります。

 また義母にとっては、過去の思い出がその暖かさの中にあったのでしょう。

 炬燵に座る生活で失敗は多くはなりましたが、介護の観点からは後退ではありません。

 本人の意思を重視するという意味では進歩です。

 普段着の生活を実現するためにも、もっとたくさんの失敗を受け入れろ、と炬燵が私たちに教えてくれました。

 その意味で、炬燵は優れて生活の一部です。

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  じゅうたん

 ゅうたんもまた一般家庭から消えようとしています。

 健康的な生活を送るにはじゅうたんは不衛生、との考え方を背景に、

 床暖房やナチュラル志向でのフローリングが普及しているのが現状です。

 インテリア素材にも、時代の変化からくる隆盛と淘汰があるのは当然のことです。

 インテリア素材としてじゅうたんを考える場合、その効用は大きいと考えられます。

 例えばクッション性。転んでも打ち身になる可能性を和らげます。

 次に暖房効果。じゅうたん一枚で断熱保温効果は倍増します。

 またほこりの吸収効果もその大きな効用の一つです。

 衛生を重視するあまり、床は無機質な素材やフローリングが増えました。

 しかし表面が平坦で緻密な床ほどほこりの吸収率は悪く、室内を遊泳する可能性が高いのです。

 じゅうたんなら床面での集塵、掃除機での清掃が容易です。

 忘れてはならないのが癒し、やすらぎ効果です。

 じゅうたんは素材と色が豊富で、

 足から伝わる素材の質感やその優しい色あいが私たちの心を癒し、安らぎを与えてくれるのです。

 じゅうたんは、高齢化の住空間に、そして明るく楽しい住まい作りに、大きく貢献しているのです。

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 空間に置ける窓の役割りは大きいものです。

 空気を入れ換える、光を取り込む、そして開放感を得る、など…。

 目に見えるもの、形にできるもの以外の、心を癒すインテリアこそ、二十一世紀に求められる要素であると考えます。

 窓を例に例えると、採光と換気だけなら人工的に作り出すことは可能です。

 しかし、環境汚染が進む地球において、将来の住空間がその方向で進むとしたら、

 それは心の不在からくる人類の破滅への第一歩ではないでしょうか。

 人の心の健康は抑圧と開放のバランスの上にこそなりたちます。

 その身近な要素が窓と言えるでしょう。

 窓を開けると光が差しこむ、このことが心に限りない開放感を与えます。

 窓を閉める、覆う(窓装飾)ことで人は本能的な防衛と安心感を得られます。

 日常の生活では、開放と閉鎖を繰り返すことで心の健康を保っているのです。

 介護には心の窓を開けることも必要です。

 心の窓を開け、外部の空気を取り込み、

 他者の光を入れることでコミュニケーションが生まれ人の心も溶け合えるのです。

 閉まったままの心の窓には、言葉も行為も通じません。

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  手すり

 年前には住空間のコーディネートの項目において、手すりは重要視されていませんでした。

 介護市場がにわかに騒がしくなって以来、手すりが脚光を浴びました。

 我が家の八十九歳になる義母は、頼りない足取りでもなんとか自分の足で立ち、歩くことが出来ます。

 階段での動作を見ていると、体の移動のために最初に手すりを持ちます。

 彼女にとってはなくてはならないパートナーになっています。

 介護用品を選択する際は、補助機能と便利機能は別であることを認識する必要があります。

 便利機能はともすれば、現状の機能を退化させる恐れがあります。

 静かな手すりの存在は、義母にとって歩くという機能を維持するための貴重な存在と言えます。

 手すりがあることで歩くことを断念しない、また歩くことに安心をもらっています。

 手すりは住空間にとってささやかな存在ですが、介護市場活性の以前から、

 補助機能を持つ住宅設備として認められている大切なツールなのです。

 介護生活は伝統的な一般生活からも見直す必要があるのではないでしょうか。

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  椅子

 二次大戦後、公団住宅、アルミサッシの普及で日本の一般家庭の生活様式は一変しました。

 茶の間が応接間、ダイニングルームに、また座布団が消え椅子に変わりました。

 座るのが楽という椅子の普及は、残念ながら人の身体の生育、健康を奪う結果になっています。

 床に座るのと椅子に座るのとでは、運動量が大きく異なります。

 実際、脚にかかる負担や体全体の動作量は椅子に座ることで半減し、

 楽で便利、ということから一般家庭の生活に定着しました。

 反面、運動量の減少が体力の低下につながっていることはあまり意識されていないようです。

 椅子生活は住環境に一定の文化をもたらしました。

 しかし、座卓に座り、和室で寝具を上げ下ろしするような「便利」とはかけはなれた生活を守りながら、

 元気に田畑を耕す高齢者の生き方も、みなさんの心の片隅に残してほしいと思います。

 椅子は、身体機能を失った人にとって必需品ですが、

 それが無かった頃の生活が私達に与えていた健康や運動量を評価し直すことも必要ではないでしょうか。

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  こころ色

 は心に様々な色の入ったクレヨン箱を持っています。

 この世に生を受けた瞬間から生活環境、職業、出会いや別れなど、

 いろいろな体験で色を積み重ね増やしていきます。

 たくさんのこころ色を持っているからこそ、泣いたり、怒ったり、笑ったり、

 人生を謳歌しながら自分のキャンパスに人生という絵を画いていくのです。

 高齢者は赤ちゃんに例えられることがありますが、当然赤ちゃんとはこころ色が違います。

 年を重ねる過程でクレヨン箱が透明になる人もあれば、心に残した色の重さに押し潰されそうになる人もいます。

 色の薄さが不安ならば濃くしてあげなければならない、色が強すぎるならば溶かしてあげなければならない、

 そんな高齢者をケアする場所に必要なものは何でしょうか。

 便利な介護用品と画一的な介護体制だけでは、こころ色は溶かせません。

 キャンパスに描かれた絵を構成する様々なこころ色を共有できる家族、友人、仲間など、

 同じ体験、同じこころ色を共有する人だけが高齢者を癒すこともあります。

 自分のこころ色を見つめ、また高齢者のこころ色を認めてあげることからコミュニケーションを始めましょう。

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  バリアフリー住宅

 差のない住宅がバリアフリーと思われています。

 和室、洋室、廊下、水まわりと、全て段差のない住宅を見ることが多くなりました。

 でも、機能を優先するということは、歴史や伝統を失うことでもあるということがなかなか気付かれません。

 四センチの敷居の昇り降りを繰り返すことが、健康や身体機能維持に貢献していることを誰も言いません。

 新築したバリアフリー住宅に住みはじめた友人が漏らした言葉「明るくて便利になったけど、

 外出するとかえってつまずきやすくなった」に代表されるように、

 人の行動は五感を通して得た情報に基いています。

 例えば、普段見慣れた平坦な道に、一本の線を入れただけで「おや」と思い立ち止まります。

 住宅とは、心や体を癒し休める場所でなければならないと同時に、

 健康回復、維持にも貢献するものでなければなりません。

 便利さを追求すれば、人の身体機能ばかりか心も失うことになりかねません。

 住まいには心と体の健康維持を優先したうえで、できれば不便も楽しむゆとりが欲しいものです。

 バリアフリー住宅は、明日の健康を作る場所でもあるべきです。

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  あかり

 代の住宅は「明るい家」が必須条件になっており、基準の照度を超えた明るい空間が多いことに驚きます。

 一般的には「高齢者になると、水晶玉が濁ることで視力が落ち、

 色の識別や明暗反応が困難になる」ことから、より明るい空間を要求されるようです。

 でも人は住空間でそれほどまでの明かりが必要なのでしょうか。

 昔話のお爺さんやお婆さんは、昼間外で働き、

 日が沈んだら家の薄暗い蝋燭や囲炉裏の炎で手仕事や食事をしました。

 その風景は心を癒す住空間には必要以上の照度はいらないことを伝えてくれているのではないでしょうか。

 人は母のお腹にいる時から暗闇で安息を学びました。

 何もかも白日の下にさらすことが必ずしも幸せでないように、

 生活には暗さにより得られる安息も必要ではないでしょうか。

 それは身体機能以前の、心の休息のためでもあります。

 人は目だけでモノを見るのではなく心にも目があり、皮膚で体で見ることを忘れてはなりません。

 時に暗さは心を癒します。大事なのは「あかり」の上手なコントロールです。

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 尾道を写真で散策!
 CD−ROM版尾道の写真集「下手な写真家の千五百枚の写真集 尾道」

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