尾道を写真で散策! CD−ROM版尾道の写真集「下手な写真家の千五百枚の写真集 尾道」 「びんご経済レポート」に戻る 「びんごイベント百科」に戻る 前のページに戻る 更新日 15年4月10日 広島県東部、岡山県西部の経済情報誌
〜新しい福祉の住環境を考える〜「びんご経済レポート」の連載紹介 「インテリア発介護」 インテリアコーディネーター 池田 真理子 機能性とデザイン性を両立させる新しい福祉商品開発に取り組む井原市の有限会社マリコ代表の池田真理子さん。 インテリアコーディネーターとして、 一般住宅、店舗、事務所など生活環境、住環境のプランニングなどに係わってきた池田真理子さんが、 毎号の連載で生活を構成するさまざまな要素を取り上げ、 固定観念を打ち破る発想で新しい福祉環境や商品開発のヒントを提案します。 池田真理子さんが代表を務める有限会社マリコは、床ずれを予防したい、という思いから、床ずれ防止を研究し、 東洋紡の新素材を組み合わせたインテリアマットなどを「Mariko World」としてブランド展開中。 バックナンバー 福祉機器 介護の段階 介護の室内環境 床ずれ予防 人体寸法 床座 手すりの寸法 食・住・介護 空間ストレス 介護のロボット化 家庭内事故 補装具 未来のベッド 靴の歴史 くるま椅子 帽子の役割 思い出 羞恥心 孝行 ギャラリー おはよう 老いる ストレス 過程 気力 誕生日 食事 こころ 生きる 買い物 がんばる 介助 気持ち 障害 お金 子供 歌 夢 愛 仕事 時間 髪 ぬいぐるみ 指輪 カーテン 畳 風 音楽 靴下 絵画 脚 ハンカチ オムツ 手 ファッション 靴 階段 化粧 寝室 玄関 居間 台所 トイレ 浴室 食卓 ペット 壁 無駄 紐 ロボット 杖 ことだま ベッド 観葉植物 炬燵 じゅうたん 窓 手すり 椅子 こころ色 バリアフリー住宅 あかり NEW !! 平成16年4月10日号発行 第1514号掲載 福祉機器 2月26、27日にインテックス大阪で「医療・健康福祉産業 マッチングフェア2004」が、 経済産業省中小企業庁、近畿経済産業局、中小企業総合事業団主催で開催されました。 過去に国際福祉機器展など様々な展示会に参加しましたが、 今回は業種と目的を絞っての開催ということもあって非常に有意義な2日間でした。 常駐するコーディネーターが我々中小メーカーと販売店、福祉組織などとの仲介をしてくださいました。 事前の研修では専門的なノウハウを伝授してくださり、改めて初心に帰り勉強しました。 産業、金融、学術、官庁、施設、病院、販売店など多くの専門家が来場。 全国から参加された企業のアイデア・提案・開発商品を見せていただきました。 消費者として他社の商品を見ると、福祉機器というものはすぐに欲しいと思う商品ではないように思います。 説明に納得したり感嘆しても、購買というアクションを起こす確率は低いものです。 逆に2月中旬に東京晴海の国際展示場で開催されたギフトショーでは、衝動買いしたくなる商品が山積み。 障害者の方も車椅子で来られ必要なものを探すなど、商品の性質の違いが明らかです。 大手販路に売り込む場合、福祉機器は必ずデータを要求されます。 パンフレットにも効能が説明してあります。 多種多様な出展企業が「業界初」「日本発」「オンリーワン」とPR。 商品の形が既存のものから短時間で大きく変化したものもあり、それは福祉機器の特徴の一つでもあります。 私が出展した「床ずれ予防」商品は、床ずれ要因の研究、快癒する方向に持っていく効能や機能が当然要求されます。 現場の声を聞くことが福祉機器開発の原点ですが、その要望は千差万別、まるで答えのない問題を解くようなもの。 せっかく出した回答も商品にするとどこかで異議が起きます。 お腹を満たす食料のようにはいかないのが福祉機器です。 福祉機器の究極の形は、けして医療機器ではないでしょう。医療機器と福祉機器は違います。 その曖昧さが、福祉機器の魅力が発見されにくい一因かとも思います。 しかし福祉機器は日常用具・生活用具でなければなりません。 生活を楽しむための商品作りを開発の念頭に置き、高度な技術やテクニックは専門の医療機器に任せれば良いと考えます。 あれもこれもと改善・便利を追求しすぎると、まるで楽しくない商品に出来上がってしまいまうからです。 どこかで妥協して、その分を楽しさや明るさにプラスすると福祉機器像が変わります。 福祉機器は生活用具です。「医療機器?生活用具?」。 その問いかけから始まる商品開発がこれからの福祉市場をリードします。 前のページに戻る 介護の段階 我が家の義母の介護生活も10年を経てオムツ生活に移りました。 最後までオムツを使わない介護が目標でしたが…。 部屋で転んで大腿骨を骨折、入院生活1ヶ月余りで我が家に帰ってからオムツ生活が始まり、 介護生活は新たな段階に入りました。 介護生活は個人の人生を垣間見るチャンスだと思います。 老いは、その人の人生を凝縮した時間を演出してくれます。 老いの模様はその人の人生模様。介護に正解が無いように、様々な老いがあり様々な介護があります。 また、家族さえ気づかぬうちに忍び寄ってくる痴呆も人それぞれ。 我が家では我が家なりの介護の段階しか体験できませんが、歩んできた介護生活を省みてみます。 年を重ねると体力的に不安になり、体力が劣ることへの不安が介護への精神的な依存につながります。 その依存度はその人の性格や生き方に拠るところが大きく、 それは同じ年代でも日常生活に大きな差があるからです。 介護者はここで第一の葛藤を迎えます。 病気なら納得がいきますが、自立した前向きな生活をされている同じ年代の人を見ると尚更、 「なぜ」と言う拒否反応とともに批判的な思いが駆け巡ります。 よく高齢者は子供と同じに例えられますが、その段階はもっと先のように思えます。 言葉も態度も介護者にとっては傷つくことが多いのがこの段階です。 介護する側、される側双方にとって最もストレスが表面に出ます。 接する際に自己の内面を容赦なく曝け出し、自己嫌悪に陥る時期でした。 介護生活を続けることで介護への嫌悪感が薄れます。 顔を見るのも嫌な時期は、毎日が自己嫌悪でしたが、 何年か経ることで気が付かない間に親しみを持てるようになっていました。 被介護者と触れ合い、時間や場所を共有することによる思わぬ副産物でした。 その段階こそ、介護生活の本当の始まりかもしれません。 お互い交わす言葉も変わり、心のとげが多少丸くなった時期でした。 この段階が介護する側にとってある意味で幸せな段階と言えます。 変化のない生活を毎日積み重ねる事は平穏であっても心は病むようです。 介護生活は気付かぬうちにまた新たな段階を迎え、鬱状態になって食事が出来なくなりました。 10年目を迎えた頃でした。1カ月余りの入院生活ですっかり精神的バランスを崩し異常行動を示すようになりました。 退院10日目に室内で転倒、大腿骨骨折で病院に再入院。 現在寝たきり、オムツ生活の中で本人の言葉も態度も一変し、新たな介護生活が始まりました。 新しい段階を迎えるたびに介護者は生活のリズムを立て直す必要があります。 介護の段階は介護者に何を知らせようとしているのか、今は一つずつ踏みしめて進むほかないのです。 前のページに戻る 介護の室内環境 家庭介護の室内環境は介護度や生活パターンによって様々ですが、 介護する側、される側双方にとって快適で永続きする環境が基本です。 第一は整理と掃除です。 どんなハイテク機器を揃えても整理や掃除の出来ていない空間は事故の元になり、双方の心の健康を損ねます。 介護、療養生活に後ろ向きな家庭の室内は乱雑である傾向が強いようです。 整理や掃除は精神的に明るさやゆとりを生む効用がありますから、 単に衛生面、安全面だけでなく、長い介護生活を健康的に継続させるためにも整理や掃除は基本です。 第二は介護者のプライベート空間の確保です。介護生活は24時間精神的密着生活を余儀なくされます。 我が家は義母がオムツ生活に入った時点で義母が使っていたトイレを彼女専用トイレに模様替えしました。 壁に貼っていた義母へのメッセージを外し、友人が書いた花のパステル画の額を掛けました。 タオルのイメージを変え、花を活け、棚にはぬいぐるみを並べ、 消臭芳香剤も彼女の好きな香りを選び、好きな本も並べました。 自分専用と宣言して小さなプライベート空間を確保し、機能だけのトイレが様変わりしました。 介護生活はもちろん心にまで影響します。自分の部屋でさえプライベート空間でなくなる気持ちにさせられます。 外に出て気分転換することも大切ですが、 家庭内でささやかな自由空間を持つことは、お互いの心の健康維持にも重要です。 第三は室内環境の質をどう自覚するか、です。 安全面の考慮がなされていて、長年使える家具や小物が理想ですが、 ほとんどの場合、通常の生活に使われる家具や小物で間に合います。 また機能さえ果たせれば装飾やデザインは必要ないと思われがちですが、 誰が見ても楽しくも欲しくもない品を毎日見ることはそれだけでストレスです。 介護保険が始まり介護用品が簡単にリースできるようになりました。 1割負担なので介護家庭にとってはありがたい処置です。 我が家では、ベッド用のテーブルがリースで月500円、適用がなければ月5,000円、購入した場合安価なもので10,000円弱。 1年リースをすると負担は年6000円、適用がなければ年60,000円の出費となります。 目先の出費と介護に使う負担を比較することも介護生活では益々重要になります。 心や視野を狭くする可能性のある住空間の構成要素や、生活出費一つ一つについて意識をもって考えることも、 介護に振り回されない方法の一つです。 「人間は人の間合い」、間合いがなくなった人との生活で、間合いを取ることを心掛ける… これが家庭介護室内環境のキーワードです。 前のページに戻る 床ずれ予防 床ずれに出会い18年、マットの開発に関わって10年近くが過ぎようとしています。 「そば殻の布団で床ずれが治った」、クライアントとの会話からなぜ?という疑問を解く旅が始まりました。 床ずれの要因は体力・症状・環境によって左右され、現在でも全ての床ずれを予防することは医療機関でも難しい状況だと認識しています。 床ずれは循環器不全から仰臥姿勢において圧力が掛かる患部が壊死、緑膿菌により汗疹等の小さな湿疹や、シーツの皺一つからも発生、 大きな傷口となり骨が見えるほど深く広く広がります。 床ずれ予防の主流は、一般的にエアーマット。体圧分散が目的です。 空気の入ったマットの空気圧を調整し、時間的に体に掛かる体圧を分散します。 床ずれ予防や治癒の方法については大学や医療機関で要因や対策の研究が進められています。 そば殻でなぜ床ずれが治ったかという疑問を住環境から考えることは医療関係者ではできない発想です。 キーワードは通気性。 アメリカや北欧に比べ日本の住環境は湿度という大きな問題があります。 日本の家屋は夏型家屋と呼ばれ、夏の湿度や温度に対する対策が施され、自然と共存する家造りが一般的でした。 家の向きは風の流れを意識したもの、素材は土や木、紙など吸湿性に富んだもの。 また高床式、開放建具なども日本の気候風土に培われ生まれました。 戦後の公団住宅の提案で日本の生活様式は一変。 コンクリート、アルミサッシが急速に普及し夏型家屋は冬暖かい冬型家屋へ、 つまり自然との共存から、自然との隔離による快適な室内環境確保を重視した住環境へと変化しました。 産業の発展で汚染され始めた自然との共存が難しくなったことも大きな要因かもしれませんが、 私たちは快適と発展を良しとし自然から隔離された住環境での生活を選択したのです。 室内の温度や湿気は機械的空調で快適になったかのように思えますが、 湿気は住宅のみならず人体にも大きな影響を及ぼしているのが現実です。 細菌・カビなどの発生、シックハウスなど新しい弊害も見逃せません。 こうした住環境の変化に対応する新しい寝具の開発が床ずれ予防のキーワードを含んでいます。 従来の暖かく柔らかい寝具を、通気性が良く冷たい寝具へとコンセプトを変えることで、 新しい住環境に適した寝具となります。 床ずれの要因でもある発汗対策にもなり、快眠へと導くものです。 体圧分散、湿気対策、清潔など床ずれ予防にはこれからも様々な方向から新しい商品を開発しなければなりません。 家庭で生きるために必要な介護用品は、家庭用品でなければなりません。 前のページに戻る 人体寸法 第二次世界大戦中に軍事上の要求で異質な技術同士が結びついてできた学問が人間工学です。 NASAの宇宙開発から生まれたとも言われます。 歴史は浅い学問でそのデータも世の中の流れとともに変化していますが、 その基本となっているのが人体寸法です。 それに基づき、家庭の空間を構成する設備も家具も規格されています。 日常の生活で人体寸法を意識することはほとんどありませんが、 福祉住環境を考える場合非常に重要な要素となります。 元来、人体寸法は人類学の立場から「骨」を対象に測定しています。 例えば手すりの取り付け位置の基準寸法には人の大腿骨大転子と言う表示がなされます。 人体寸法には静的人体寸法と動的人体寸法があり、 高齢者や障害者の寸法は基準と大きく異なる場合もあります。 普段何気なく使っている机やテーブルの高さは、通常床から70cm。 ところが車椅子対応テーブルになると70cmでは車椅子のアームがぶつかりテーブル下に車椅子が収まりません。 5cm前後高くすることで車椅子対応のテーブルとなります。この5cmの差は、健常者が使っても違和感ありません。 クライアントの要望に合わせ特注机の高さを85cmで仕上げたことがあります。 体格の立派な方にとっては既製の机より快適な事務環境になったようです。 通常の既製の洗面台の高さも76cmを基準としているようですが、 その寸法は、立って洗面する場合、手の雫が肘に伝わらないように肘を上げる代わりに頭を下げるためとも言われています。 その姿勢では腰に負担がかかりますが、長年疑問も持たれず家庭で使用されてきました。 リフォームの際、腰に負担のかからない寸法でと別製カウンターを提案し、高さを85cmに設定したら、 家族の方にも、身長150cm弱のおばあちゃんにも喜んでももらえました。 個人に合わせた寸法がいかに大切かを教えられました。生活の不便さに疑問を持つことが大切です。 問題点が表面化すれば、個人の使い勝手や寸法が重視され、室内空間が整えられる…大変喜ばしいことです。 身長、両手を広げた長さ、指を広げた長さ、座高、足の長さや大きさなど、 自分の基本的人体寸法を把握しておくことは自分の動作域のため、安全な生活のために必要なことです。 日常何気なく使っている家具や建具、設備の寸法がほとんど決まっていることに気付き、 その上で自分の心地よい動作寸法や空間、正しい姿勢を得るための寸法を把握することから住環境の整備は始まります。 オンリーワンの自分の体から自分だけの空間が生まるのです。前のページに戻る 床座 福祉住環境にとって日本の伝統的生活様式は不便なものとなっています。 その象徴が床座といわれる床に座って生活する習慣です。 第二次世界大戦後(いわゆる戦後)から日本の生活様式は劇的に変化を遂げました。 アルミサッシの普及、公団住宅におけるシステムキッチン、応接間の提案による家具類、 ベッド、ダイニングテーブルなどの変化を経験した世代が現在の高齢者の中心です。 二十年近く前に出会った、八十代のご婦人に教わった住宅改修がバリアーフリーの精神でした。 彼女は医者に止められても小型オートバイを運転され、元気なその方が案内してくださった老後の住宅は、 足が立たなくなったとき這って移動するために、寝室から廊下、トイレまで段差の無い床でした。 トイレの心配を一番にすること、トイレを最後まで自分ですること。 このことは自分らしく生きるための最優先の条件だったようです。 彼女の生活の根底には人の世話になることと、福祉機器の活用はありませんでした。 足が立たなくなったときは這って移動する…現在の介護のマニュアルにはないことです。 なぜなら介護は、根本的に床座の生活を否定しているからです。 体にとって楽な姿勢を保つためのベッドや椅子での便利な生活では、 這うという姿勢は無駄で苦痛な移動、という認識です。 しかし床座の生活から移動を考えた場合には、這うことが一番手っ取り早い方法。 オールドオールドと呼ばれる高齢者の方のほとんどは人生の大半が床座の生活。 ベッドではなく畳に寝具を敷き、朝になると寝具を収納する毎日の習慣から足腰が鍛えられています。 ベッド生活の高齢者より畳に寝具を敷いて生活する高齢者が元気であるという統計も出ました。 寝たきり高齢者を介護する側にとって、立位のまま介護できるベッドは確かに重宝します。 足腰が弱くなった高齢者にとっても立ち上がる際、 床からより椅子の高さからのほうが移動距離も、力も少なくてすみますし、 毎日の生活が楽になるということは体への負担も少なくて済みます。 しかし毎日の楽な生活の積み重ねは、体を軟弱へと導くのです。 人が仰臥する行為で、心休まる究極の場所は大地ではないでしょうか。 地に足がつくと言われるように仰臥姿勢の下に空洞があれば、意識せずとも不安要素になるものです。 福祉住空間は生活様式を根底に構築されていますが、住空間の構成に正解はありません。 介護のための住空間も自分達の意志で決定すべきです。 住宅に畳の部屋が少なくなり床座の生活が忘れられようとしていますが、 温故知新、床座の生活には「強い体をつくる」という意味で、 あるいは「より合理的な移動が可能」という意味で逆説的に、日本の福祉の心が眠っているのです。前のページに戻る 手すりの寸法 手すりはインテリアとして違和感なく住環境に溶け込んだ福祉機器の代表選手です。 2001年度の出荷ベースでの売上は「手すり・握りバー」として93億円で前年度比20.8%増となっており、 普及率の速さを垣間見ることが出来ます(2000年4月より介護保険制度実施)。 手すりは介護保険の福祉用具貸与対象(ただし取り付けに際し工事を伴わないもの)で、 工事を伴う住宅改修などの支給対象にもなっています。 福祉用具は、デザインや色についての問題点が指摘されますが、 てすりにおいては色やデザインの種類は豊富で、 日々変化を遂げています。材質もさまざまで色もカラフル。 デザインもシンプルなものから、いろいろ工夫を凝らし握りやすく、使い勝手の良いものが生まれています。 それは、福祉用具としてではなく、 住宅内装の一部として住宅メーカーや設備機器メーカーが開発しているからです。 住宅に組み込まれ、設備機器として認知されると成長も普及も早まります。 手すりが福祉用具であるといった認識がなくなる日はそう遠い事ではありません。 手すりの形状はさまざまですが、握るための一般的な手すりの直径の寸法は、大きく分けて二つ。 力を入れやすく握りやすい寸法は28〜32mm。 通常は握って親指と中指が軽く触れる程度の寸法で、その直径は32〜36mmとされています。 取り付け場所も考慮が必要です。人体寸法に応じて取り付けられなければなりません。 たとえば階段等に取り付ける手すりの高さは、 使用者が特定できる場合は本人の大腿骨大転子に合わせますが、 通常は階段の段鼻より手すり上端まで750〜800mmが目安。 その他トイレ、玄関など基本的な寸法に基づいて取り付ければ、手すりの機能が生かされます。 我が家でも、義母のために最初に取り付けた福祉用具が手すりでした。 おかげで随分と長い間、階段を一人で昇降でき、廊下も一人で歩くことが出来ました。 階段を上がるために手すりを強く握って体を支え、 手すりに引っ張ってもらう状態でヨイショ、ヨイショと上がっていました。 降りるときは前に転ばないように、安全のための優しい支えになっていました。 手すりのおかげで手の握力も持続でき、自分の力で動ける自信を持たせてくれました。 手すりを握らなくなったときから、ベッドでの生活に入りました。 手すりは寝たきりにならない砦のような福祉用具です。 手すりという砦を離した時点で介護生活が変わり始めます。 長い介護生活の中で関わる福祉用具はそれぞれの季節を象徴しています。 手すりの寸法から始まって、デザインの意味や材質の感触など知識として興味を持つと、 介護生活も少しだけ楽しく優しくなれそうな気がします。 前のページに戻る 食・住・介護 栄養学や医学、食品等の専門知識のない介護生活では、 食事の知識は本や周りとの会話から得る以外ありません。 試行錯誤しながらの開き直り食生活は、長年培ったインテリアから発する方法です。 住空間の主役は人。スペース、カラー、テクスチャー、デザイン、 すべての要素の調和こそ居心地のいい空間構成です。 居心地のよい空間を構成する素材は表面上の形や良し悪しだけではなく、 作った人の思いで、同じ色や形のものでもまったく違った空間を演出します。 「味のごまかし」が利かないように、インテリアも手抜きや偽者は瞬時にしてばれるものです。 形だけの空間は、袋詰めのスナック菓子同様味けないもの。 手作りの丹精こめた新鮮な野菜からは、作り手の顔が見えます。 食べる前から心にビタミンを供給してくれます。 お皿に並ぶ料理は赤・黄・緑 3色を中心に、信号のようにカラフルに演出することを心掛けています。 栄養や食品数を意識しないでも楽しいお皿の料理を提供すれば食べることが楽しみで食が進むからです。 インテリアと同じバランスです。住まうことも食生活も理屈や数字では味気ないものになります。 コーヒー一杯を頂くのもさまざま。自動販売機で買う。家庭でインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。 コーヒー豆からドリップする。一人で飲む、友と飲む。紙コップで飲む、カップに拘る…。 その択肢はさまざまです。 コーヒー豆をミルでゴリゴリ挽いて、ドリップして飲むコーヒーは何倍も美味しいと感じる。 豆を挽くとき、ドリップするとき、飲むとき香りを楽しみ味わえます。 究極のコーヒーだと満足して飲むこだわりは、介護にも共通します。 手間をかけ、時間をかけゆっくり思いやりの心で接する。 食事は手作りで楽しい食卓。誰もが疑わない健康的な、そして目標としてきた介護生活です。 しかしコンビニの間に合わせで供した食卓を「美味しかった」と残さず食べてくれた事がありました。 手作りが優しさだと信じていたので、コンビニなどの食事を否定していました。 同様に家具も、手作りの心地よさと、大量生産の既製品では当然違う、と言った価値観も覆されました。 毎日の家庭の食事とは違う新鮮さがコンビ二弁当にあったようです。 住まうこと、食べることは生きること。 介護生活という、人の手を借りて生きることを余儀なくされる生活には、 形も正義も正解も無いのかもしれません。 一人一人の顔も個性も違うようにそれぞれの介護生活の形があり、色があり方法があります。 コンビ二弁当で済ます食卓を受け入れたたことで、 ピンと張り詰めた肩が少し柔らかくなったような気がしました。 そんな気持ちは介護される側にも伝わります。 お互い少し肩を緩めることで笑顔が増えます。 食・住・介護 すべてが生きること。介護に究極の方法などないのかもしれません。 前のページに戻る 空間ストレス ストレスは、生活習慣病から始まる病気の要因としておなじみです。 辞書ではストレス=「体に害のある肉体的・精神的ないろいろの刺激」。 ストレスをなくすることは、刺激の要因を取り除くことになります。 家庭介護において、ストレスは日常的に簡単に発生します。 被介護者という立場でのストレスも、介護者という立場でのストレスもあります。 しかし人間の精神は、このストレスに反応し強くなる力も持ち合わせています。 介護者にとって介護の日常に新たなケアを加えたり、 優しさを添え相手の心を癒そうと努力することでストレスが発生しますが、 被介護者にとってのストレスは軽減されます。まるでシーソーのようです。 シーソーは同じ位置で留まらず、常に揺れています。 揺れることでストレスはストレスで無くなることもあり、 逆に自覚しないまま肉体的・精神的疲労が積み重なり、病気へと発展する可能性もあります。 介護環境では、空間ストレス(私の独自の考えですが)を日常意識することはないと思いますが、 これは重要な問題です。 まず介護用品が室内に侵入して場所を占領します。 目に見えるものから受けるストレスは、自分が好むもの、 好まないものに対する刺激がそれぞれ異なり、シーソーの両極に位置します。 つまり自分の好むものが室内空間を占領することは癒し(ストレスの解消)に、 好まないものはストレスの要因になります。 介護用品は、その物自体が介護を象徴するため、何倍ものストレスとなって視覚から飛び込んできます。 人がそれぞれ有する、心地が良い占有面積(テリトリー)に進入するからストレス要因となるのです。 介護を連想させる介護用品は、被介護者にとって存在そのものが大きなストレスなのです。 空間ストレスの大きな要因は介護用品だったのです。 介護用品はまた、安定した精神の占有面積にも進入し圧迫します。 この圧迫が日常生活において自覚しないストレスへと発展するのです。 自覚できるストレスは、解消手段も講じやすいですが、 自覚しないストレスは気付かずうちに大きくなっている場合が多いもの。 家庭介護においての疲労の多くは、こういった目に見えないストレスの積み重ねです。 空間ストレスを意識することから家庭での介護環境を構築すれば、 家庭介護の普及も促進され、理想的な福祉社会のベースになります。 空間ストレスへ対処の要点は 1空間ストレスを意識する。 2介護用品を明るく楽しいものにする(色やデザインでの工夫)。 3家族のテリトリーを意識する(家庭生活での整理整頓・掃除)、に尽きるようです。 心地よい空間が家庭介護出発のベースなのです。 前のページに戻る 介護のロボット化 十年近く前、新しく老人介護施設を開設する医療関係担当者のお話を伺いました。 高齢者介護において、一番大切なのは人の手で介護することだと言われました。 機械で行う単調なリハビリに対する反論でした。 心のある介護という点で嬉しくあり、介護の世界が暖かく、希望が湧いたことを今でも覚えています。 そこには機械・ロボット否定の上に、人の手で世話をする暖かい介護の世界があります。 女性、主婦、介護者にとっても分かりやすい介護世界です。 機械やロボットの開発を進める行政も研究者も無機質的なイメージがありました。 縁あって福祉機器やロボットの開発に関わる人たちとの出会いがありました。 学会での研究発表にも伺いました。驚いたことは、研究者の人たちの優しさです。 ロボットは非人間的、無機質、冷たいなどのマイナスイメージがありますが、 生活の中では家電機器などさまざまな形のロボットの原型にお世話になっています。 また工場の自動化、建築現場の重機類などロボット化の恩恵は計り知れません。 介護者の高齢化、負担増と人手不足など高齢化社会の課題は多くあります。 古典SFの名作、アイザック=アシモフの「私はロボット」にはロボット工学の三原則があります。 1、ロボットは人間に危害を加えてはならない。 また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。 2、ロボットは人間の命令に従わなければならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。 3、ロボットは自らの存在を譲らなくてはならない。ただしそれは第一第二原則に違反しない場合に限る。 人工頭脳搭載ロボットは今やSFの世界だけではなくなりました。 二足歩行ロボットをはじめとする高性能ハイテクロボットは日々目覚しい進化を遂げ、 福祉介護の現場でもペットロボット、お話ロボットが愛玩されています。 ロボットに象徴される、人間が生み出した人間に代わる動力や能力を受け入れる賛否議論は無用になりつつあります。 重度障害者の方に夢や希望を聞きました。自分の手でりんごの皮をむいて、食べたいときに食べること。 自分で自由に歩き回ること。どれも人の手が介在しないことが前提です。 介護では、自由を手助けするために人の手や心を拒否することもありますし、 心があるから他人の心が負担になる時もあります。 急速に進むロボット化の文明を私たちは介護世界から学び進めるのも一つの方法かもしれません。前のページに戻る 補具装 「福祉用具」にはさまざまなものが含まれます。 福祉機器、リハビリテーション機器、介護機器など用途も分野もさまざまです。 1993年「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律」(福祉用具法)が制定され、 「福祉用具」という用語に統一されました。 その中で医療面での役割の「補装具」と生活面での役割の「自助具」があります。 補装具の交付については身体障害者福祉法により、 障害者手帳を有する人が「身体障害者の更正相談所」の判定を受け交付されます。 補装具も上肢、下肢、体幹の装具から義肢や車椅子などさまざま。 その適応評価や製作に当たっているのが義肢装具士と呼ばれる人達です。 1987年(昭和62年)に義肢装具士法が制定され国家試験が実施されているようですが、 医療の中の技術士として、技術を磨き受け継がれています。 介護保険が制定され一躍脚光を浴びた福祉用具ですが、日本の補装具の素晴らしい技術は誇らしく思えます。 義肢製作の会社を経営している友人に工場を見学させていただき、現場の人のお話を聞く機会がありました。 現場の人の優しさと真摯な仕事振りに驚きました。 工場というより工房、作業所といった言葉が似合う場所で、一人一人の補装具を丁寧に仕上げてます。 色、形、機能、それぞれが個別で微妙な対応を迫られる仕事です。利用者の要望に可能な限り近づける作業。 経験と積み重ねた技術をベースに、常に新しい素材と技術、知識を導入する現場でした。 仕事とはいえ一人一人に対応することへの使命感はこんなにも明るく、生き生きとした現場なのかと感激しました。 傍らには試作品や失敗作が積まれていました。 シルバー市場へ参入する業者は、現場の声を個別にモニターし、聴取した資料をもとに開発者の考えを反映させ商品化します。 そこにはたくさんのフィルターがあり、声も光も屈折します。 現場の声も、モニターの声も千差万別、まるで正反対の意見すらあります。 それは人の顔が違うように、生活習慣、症状、価値観、嗜好などさまざまな要素が絡み合い複合するからです。 福祉用具には正解がないのです。 介護市場、福祉用具、そんな言葉を口にすることもなく毎日一人一人の要望に答えるために、 笑顔を見るために作りつづけている人達とその技術が日本の福祉用具の根底にあることを忘れてはなりません。 シルバー市場新規参入業者は補装具の意義と技術を謙虚に学ぶ必要があります。 福祉用具の根底は人の尊厳にあるからです。 前のページに戻る 家庭内事故 平成11年度の統計によると、家庭内事故による高齢者の死亡数は8,268人。交通事故による死亡数を上回っています。 最も多いのが浴室内での溺死で2,699人、次いで多いのが同一平面状での転倒事故で792人。 階段からの転落や転倒は290人です。 この数字を見てもわかるように、高齢者の事故死は家族の予知しえない場所で多発しています。 我が家の93歳の義母の生活を見ていると、個人差はあるでしょうが体力的な衰えは10年介護した家族でさえ予測できません。 最後まで自分の足で歩ける生活が介護の目標ですが、日常の体力維持を努力しても衰えの方が進んでいます。 一つ一つの日常動作がリハビリと考えて見守っていますが、体力の衰えにはかないません。 少し目を離した隙に打ち身を作っている事があります。 また足より体が前に出ている状態で歩く時があり、足はほとんど上がらず、すり足のようにして歩いています。 一番危険な状態です。幸い大事には至っていませんが、このような状態のときは気を付けるという意識が本人にはありません。 義母は必ずスリッパを履きます。介護者から見るとスリッパを履く方がつまづきやすくなるだろうと予測しますが、 何故かスリッパを履いたほうがつまずきません(このあたりに気と動作の関係があるのかもしれません)。 安全にと靴状の物を履かせたほうが却ってつまずきやすくなります。 足の先に注意と力を必要とするスリッパと、履くと注意も力も必要ない靴との違いです。 自分で履くスリッパと、履かされている靴への気持ちの違いもあるかもしれません。 階段も一人で移動できますが、必ず同伴者が必要で、手すりがなければ無理になりました。 介護仕様ではなく、普通の室内で介護したいというのが希望ですが、手すりだけは最初に付けた介護機器でした。 手すりがあることで、階段を移動する意欲をなくしません。また手すりを握ることで手の握力を確認できます。 手すりを頼り移動しているときはゆっくり注意深く歩きます。平坦な場所より危険性が少ないことも頷けます。 入浴も健康維持に必要不可欠。 体を温めることで体全体の活動を活発にしますが、湯船に浸かる時間の感覚がなく、 体感温度の自覚も衰えているのか、いつまでも湯船に浸かっています。 体力や臓器が衰えている状態で気持ちが良いことを優先すれば危険が増します。 高齢者の日常を観察すれば家庭内事故の数字も頷けます。 加齢による体の変化を知識でのみ得るのではなく、高齢者と接する日常を情報源として注意深く接することが必要です。 思いやりと言う心を添えて。前のページに戻る 帽子の役割 ヘッドギヤー(head gear) に被せる帽子の開発を手伝いました。 頭を保護するためのクッション材などを装備した被り物ですが、機能優先の物々しい形です。 その上から被せるための帽子は異常に大きな形になり、大きく見えない形にすることに大変苦労しました。 ヘッドギヤーをつけなければならない子を持つお母さんの思いに触れ、 帽子の開発で精一杯答えようとした人達の奮闘を、目の前で感じることができました。 ヘッドギヤーには帽子やヘルメットなどの意味合いがあるようです。改めて帽子の役割を考えてみました。 ヘルメット( hel met ) とは、ご存知のように工事現場や学童の自転車、オートバイに欠かせない被り物です。 アメリカンフットボールの選手等が使用する被り物も含まれます。 日本の伝統武道の剣道に使われる面もヘルメットの一つ。 頭を保護する機能を全面的に打ち出しているイメージが強いですが、介護福祉では何故かヘッドギヤーと呼ばれています。 ヘルメットとヘッドギヤーでは意味合いの違いがあるのかもしれません。 ユニバーサルデザインが叫ばれていますが、工事現場やオートバイの運転で頭を保護するヘルメットと、 障害者の頭を保護するヘッドギヤーでは、機能が同じでも言葉から受け取るイメージはかけ離れています。 言葉のユニバーサルも大切なのではないでしょうか。 そのヘッドギヤーを隠すための帽子は装飾的な役割が重視されます。 同じ頭に被る二つの帽子。機能と装飾が分断されたことで帽子の役割が明らかになった一例です。 帽子の原点である一枚の布で頭を覆う形は世界中で見られます。誰もが自然に受け入れている習慣です。 時代の流れが速くなり、豊かな社会に変貌する過程で頭の布は取り払われ、シンプルな形へと変わりつつあるようです。 元来人の尊厳、宗教的意味合いも含まれたシンボルの一つでしたが、文化としての帽子には装飾的要素が強まりました。 頭部の保護、日よけといった実用性に加え、ファッションも重視される帽子。 介護商品の開発に取り組んだ時、人の体の機能はもとより、歴史や文化までもが目の前に展開されます。 これからの帽子はファッションと機能が進化した形になるでしょう。 鉄腕アトムの頭の形に代表されるように、電波や情報の受発信機能などが装備される帽子も夢ではありません。 頭を保護する被りとしての帽子は、人間であることの象徴でもあります。 自分の意志で帽子で選択し続けることが、実は人が人として生きることの証しかもしれません。前のページに戻る くるま椅子 車椅子の変遷はめざましく、ここ数年でカラフル、コンパクト、便利なハイテク商品が生み出されています。 介護市場に普及するまでには高額なこともあって時間がかかりそうですが、 まちでは折りたためる、シンプルなデザインで普及価格のものを多く見かけます。 今では子供から大人まで、知らない人はいないと言えるぐらい一般社会に普及した介護機器です。 椅子に車がついているから車椅子と言われるのだろうかと「くるま」に焦点を当てて見ると面白く感じられます。 中小企業の技術展示イベントに出展していた新潟県の歯車会社のブースに、 カラフルな歯車を数個連ねて小さな力を大きな力に変える展示品を見つけました。 介護から離れられない心が思わず「すごい!」と叫びました。 小さな歯車についているハンドルを回すと簡単に大きな歯車が回り、連なった歯車がそれぞれ動き出します。 見ているだけでも楽しく「これ、リハビリ機器用に使ったら楽しいと思うけど、作ってくれませんか?」と聞くと、 突然の申し出に困惑された様子。 機械の歯車を中心とした事業を営む会社にとっては、考えてもみない依頼のようでした。 日常生活に「くるま」はたくさんあります。 水車、貨車、滑車、馬車、人力車、自転車、自動車、リヤカー、サイドカー…。 「くるま」とは「1、軸を中心として回転する輪。2、輪の回転で前進させ、人や物を運ぶ道具。 3、明治から昭和のはじめ頃までは人力車をいい、現代では自動車をいう」と辞書にあります。 そうしてみると、歯車はくるまの原点のような気がしてきました。 小さな力でものを動かす、運ぶ。動きたいと思う気持ちが輪に伝わり動く。運びたいと思う気持ちが輪に伝わり動く。 人の心を素直に形にする、それが車椅子ではないでしょうか。 小さな思いを形にすることから始まった車椅子はハイテクで高機能、カラフルで楽しい機器になりました。 その要因の一つは大手資本の参加です。大手資本は技術、人、資金で瞬く間に素晴らしい商品を生み出します。 最近では階段を上り下りする車椅子も開発されました。 これからもハイテクを駆使した様々な介護用品が開発されるでしょう。 新幹線に車輪があり、空飛ぶ飛行機にも車輪がある。 動くことに「くるま」が不可欠なように、車椅子は人と人の心を結び、人の輪を繋げる介護機器の象徴だと言えます。前のページに戻る 靴の歴史 介護市場においての靴の歴史は非常に浅いものです。 既存の靴メーカーよりも、新たな介護靴メーカーが介護市場のシェアを構築しています。 既存の大手靴メーカーも、介護市場への新たに参入するため, 靴の製造ノウハウや技術を駆使して介護靴を発売しています。 しかし販売に苦闘している現実に触れたとき、歴史の中で生まれた介護靴の特異性を認識させられました。 介護市場で普及している靴は、既存の靴の概念を大きく破ったデザインと機能をもっています。 4E、5Eといった靴の巾サイズに、マジックテープやゴムを使った開閉、 着脱の利便性、素材の変化など、なくてはならない諸条件を備え、 片足販売などの対応も可能となり靴の歴史に新たなページを添えています。 毎年東京で開催される国際福祉機器展で、介護靴の提案に立会った際、 多くの人と対面してその意見と要望を聞く機会を得ました。気がついた大きな特徴を列記すると、 1、インと色柄は新たに生まれたもので、既存のイメージと異なる 2、機能は形、着脱の利便性に重点が置かれ、既存の靴の機能は軽視 3、販売ルートも既存の靴ルートとは違ったルートを流れ新たな市場を形成 4、片足販売、個別対応など個人のニーズに対応した販売方法・・・などが特筆されます。 また、介護靴に対しての消費者からの意見や要望では、 1、普通通の靴と同じようなおしゃれなデザインが欲しい 2、一日の足の変化に対応できる靴 3、外出の際も履けるきちんとした革靴 4、室内履きで滑らず、もっと軽い靴…などが求められています。 長年靴の製造メーカーとして靴を提案している担当者も、既存のノウハウに新たな要望を加えることに苦心していました。 画期的な介護靴の提案に大きな意欲を燃やしていますが、靴という既成概念の中で苦闘しています。 日本の靴の歴史は明治3年築地に誕生した靴工場から始まったようです。それまで日本人は草履や下駄でした。前のページに戻る 未来のベッド 折れて、曲がって、上下して、離れて、向きが変わる。すべてスイッチ一つで動作する… そんなベッドを介護者はあたりまえのように日常生活に溶け込ませています。 町の発明家はさまざまに工夫を凝らした介護用ベッドを研究開発し、製品化して介護市場に提案しています。 ベッドが日本の住宅に普及をはじめたのは第二次大戦後。 台所がシステムキッチン、ダイニングテーブルの生活になり、洋間の寝室にベッドが普及しました。 クッション性のある新しい寝具、ベッドは子供から若い世代に瞬く間に定着した反面、 高齢者にとっては落ち着かない新しい寝具のイメージが大半を占めていました。 高齢者福祉、ゴールドプランにより家庭生活の中での介護環境が見直され、 ベッドは寝具から、便利な介護用品へと役割を変えていったのです。 日本従来の床座の生活における体の負担を軽減するベッドは圧倒的な支持を得ました。 起き上がりの介助までスイッチ一つで可能になり、 寝たきり防止と、介護者負担の軽減に無くてはならない介護用品として定着したのです。 ベッドはインテリアでは家具とされていますが、 介護市場においてはモーターのついた機械であり、介護機器と言っても過言ではありません。 不便を解決、機能を形に。新しい介護機器の提案は今後も留まることを知らないでしょう。 未来のベッドは介護の不便を解決した形を想像すれば簡単です。 朝の目覚めとともに、スイッチ一つで起き上がり、自動的に体の屈伸運動、 体をマッサージして洋服を着せてくれ、歯ブラシを持った腕が伸びて歯磨きをしてくれ、 運んだ食事を食べさせてくれ、そのまま玄関まで運んでくれる…など。 すべて機械のベッドが自動的にスイッチ一つでやってくれる、そんな未来のベッドはすぐ目の前です。 介護用品の開発において、不便の解決や機能の付加は、疑う余地もない正義だと信じられており、 またその欲求も際限がありません。 しかし無駄をなくす商品開発の結果、人の心や機能をも失うことに気付かなければなりません。 血の通わない手は介護する人の労働を軽減できても、介護される人の心を満たすことはできないからです。 自分が楽になる介護機器ではなく、自分がそうでありたい介護生活を実現するためにも、 未来のベッドの方向性は熟慮する必要があるのではないでしょうか。前のページに戻る おはよう 介護の一日は「おはよう」で始まります。 毎日、様々な「おはよう」があります。 眠っている時は小さく、目覚めている顔には元気よく、憂鬱な気分のときは冷たいおはよう。 おはようの言葉で触れ合いが始まる、髪をとかし、歯を磨き、下着の交換、洗顔…と、 おはようの色合いで一日の介護の色が決まります。 人生始まりも「おはよう」から始まった気がして、毎日が新しい始まりだと言い聞かせています。 挨拶という習慣は言葉の宝石です。 毎日投げかけるおはように返事はなくとも、それは心の奥底に薄く小さく積み重ねられ、 いつか大きくなった時、相手の心が動くのかもしれません。 見えないトンネルの中をさ迷う日々ではなく、薄い紙を積み重ねる介護であるなら、 それを重ねることでお互いの心に形となり輝くはずです。 現実をまっすぐ見つめ、少しのロマンで装飾すれば、言葉一つの色が変わります。 「おはよう」で始まる一日が「おやすみ」で終わるように、 人の終焉も静かに「おやすみ」で終えたいものです。 介護は人生の縮図。それを体験できる今をまっすぐに生きたいと思います。 前のページに戻る ギャラリー 介護の形態は様々な個性があると推測されますが、 家庭介護においては、その個性こそが介護の全てとなります。 一日のほとんどをベッドで過ごしている義母の入浴は、近くの温泉です。 一般客に混じっての入浴ですが、熱い寒いと大きな声で騒いだり、 時には裸で脱衣場に横になってしまいます。 介護する側も経験を重ねるため、慌てず黙って見守ることで対応していますが、 不思議なことに他の入浴客がいない時は騒がないということに気が付きました。 騒ぐと注目してくれる人がいる、声をかけてくれる人がいる、つまり、 家族以外の人の心を自分に惹き付ける行動だったのではないかと思い当たりました。 人は社会の中で生きてきました。 生きることの一つの証が「認められること」であるなら、 きっとベッドでの生活をしている状況でも、生きる応援団、つまりギャラリーが必要なのです。 介護の世界は閉鎖的になりがちです。 家族以外との接触は自分が自分である証、生きている証をもらえる貴重な体験だったのです。 高齢者に必要なのはギャラリーの拍手です。 前のページに戻る 孝行 福祉は全ての人に平等や便利、幸せを要求する権利を与えようとしています。 残念ながら、同時に沢山の心を無くそうとしているようにも思えます。 家庭介護を試みると、様々な選択が可能であることに気付かされます。 入浴一つにしても、電話一本でサービスが受けられ、介護する側の負担を軽減してくれます。 しかし一つが当たり前になると、人は次の便利を求めようとします。 こうして福祉は人々を束縛や苦痛から解放し一時の安楽を提供してくれます。 これが人々を幸せにする福祉の一面です。 しかし、人の幸せは安楽の中にのみ存在するのでしょうか。 束縛や労働や人のために身を呈することには、果たして幸せは見つけられないのでしょうか。 「孝行」という言葉が世の中から消えようとしています。 介護を必要とする親に感謝の気持で仕える事など無意味な世の中になりつつあります。 親と共に老いと戦う時間は、 孝行以上に我々に満足と、人としての道を示してくれることを知るチャンスでもあります。 親を他人の手に委ねボランティアに勤しむ世の中は不気味ではないでしょうか。 前のページに戻る 羞恥心 羞恥心を忘れることが、年を重ねるバロメーターとして捉えられています。 人の手を煩わせる身体状況になったとき、 最初に戦わなければならないのは己の羞恥心かもしれません。 義理でする介護でも同様で、羞恥心を根底としたさまざまな葛藤があります。 表面に現れる現象に思いやりがあれば心地よく過ごせるはずなのに、 時として反対の形をとろうものならお互い日々ストレスを重ねるだけです。 その根底にある羞恥心に気付くことに随分と時間がかかり、 また羞恥心を薄めることにはもっと時間がかかったような気がします。 しかし羞恥心は人間だけに与えられた美徳かもしれません。 生まれた時にはなかった感情を、人として成長するにつれ育み、 社会人として生きていけるようになります。 そして最後に羞恥心を少しずつ昇華させ、まわりに身を委ね、 他人に感謝する事を教わることで、人としての最後の学びは終わるのかもしれません。 羞恥心は厄介な砦ですが、砦を持たない人間が増えると人は動物と化すのではないでしょうか。前のページに戻る 思い出 老いることで人の手を借りなければならなくなった時の気持は言葉には表現できないと思われます。 理解できるとしたら、それは自分が介護される側に立ったときです。 思い出や家族は最後まで大切なものだと、こだわる必要もありません。 老いることで、行動も可能性も少なくなって行くなかで、 人はさまざまなものを棄てながら生きていかなければならないからです。 元気なときはあれほどこだわった家を守ることも気にならず、 趣味、友人さえとも遠い生活になる反面、嫁への意見がなくなって変わりに感謝の言葉が出てくることもあります。 介護者にとって扱いやすくなることは、逆に悲しいものです。 元気な言葉を交わしていた頃の思い出を懐かしがるのは周りの家族。 高齢者にとっては、思い出を捨てることも、実は新しい命の燃やし方なのではないでしょうか。 顔の表情が変わり、ものへの執着がなくなり、 人の手を借りるという新しい生きかたで、人は最後の人生勉強をするのでしょう。 思い出という荷物を棄てながらゴールを目指し歩き続けるのです。 前のページに戻る 老いる 介護という関わりで被介護者の生活に密着すると、 人が老いるという現状を目の当たりにすることができます。 人の寿命という現実を体感し、認識できます。 昨日できていたことでも夜が明けるとできなくなったり、恥じらいや喜怒哀楽をなくしたり、食が細くなったり…。 全ての人が同じ様子ではないにしても、命が細くなっていく過程は止められません。 しかし人が老いるという事は、幸せなことなのではないかとも思えます。 他人や物、世情への関心が薄くなる過程は、神に近づく心を獲得していく過程であるようにも思えます。 顔から怒りや憎しみの表情がなくなり、あどけない子供のような笑顔が蘇る…。 死を迎える準備としての老いは、人間にとって最も幸せな形なのではないでしょうか。 老いの形を人生の総仕上げとしてどのように演出をするかは、人の生きかたそのもの。 人は老いるため、死ぬために命を与えられたのではないでしょうか。 介護者が人の命を彩る最後の助演者であれば、介護者の命もより鮮やかに輝き、新しい命を照らすのです。 前のページに戻る ストレス ストレスは健康生活において諸悪の根源のように扱われています。 介護においても、双方のストレスを最小限にとどめることが継続や精神的な支えになることは否めない現実です。 被介護者のストレスを無くすことが体や心の健康に重要であると励めば励むほど、 家族介護では介護者自身のストレスを増すのが現実です。 被介護者の笑顔や健康が介護者にとって幸せであり、 使命であるとする道徳的な正しさであるという考え方はあって良いのですが、 理想だけで毎日が過ごせるほど介護は美談でも綺麗事でもありません。 ストレスという厄介物をなくすことは不可能です。 しかし被介護者にとって、ある程度のストレスは、 健康維持や生きる事へのエネルギーともなることから必要なものでもあります。 生活習慣の変化からくるストレスは、考える、動作を変えるという新しい刺激となって、 感情や体を動かす力となるからです。 短調になりがちな日常と、夢を失いがちな生活に、 適度なストレスが香辛料の役割をする事で引き締まった日常を演出できます。 前のページに戻る 過程 高齢者の健康維持のため、快適生活のため、手助けのためと、 人が人と関わり体に触れ、言葉を交わし作業をすることが「介護」です。 介護者は介護と自分の生活と両立させなければなりません。 時間との戦いであり精神的負担は大きく感じられることもあるでしょう。 毎日同じことの繰り返しを苦痛に感じても、逃げ出すことは出来ません。 家庭介護には、介護者が自らを管理し精神的ケアーをすることが必要です。 また家族の理解や協力などの応援も必須です。 介護の毎日で、介護者は介護の結果ばかりを追い求めることに終始し、 介護の過程を疎かにしていることを忘れる事があります。 つまり作業を終えることを介護の結果だと勘違いするのです。 「そばにいて欲しい」、ただそれだけが求められることもあるのです。 孤独と不安を和らげる介護は、快適な環境づくりや健康管理だけではなく、 共有する時間に流れる言葉や心の触れ合いにあります。 介護はシステム化できない、人生キャンパスの仕上げです。 過程を疎かにしては、良い絵は仕上がりません。 前のページに戻る 気力 元気、勇気、強気、弱気など、人の健康状態を表現する言葉に「気」がつく言葉が多くあります。 「気力」に表現される「気」は見えない、計れない人の命のバロメーターです。 老いの判断基準は、単に体力の低下だけではありません。 体力の低下より重視すべきなのは気の低下ではないでしょうか。 元気、勇気、やる気など前向きな気力の低下こそが老いること。 高齢者でも気力が充実している人は元気です。 医学的な健康維持だけでなく、気の充実を継続する事も重要になります。 介護に必要なのは介護保険や福祉、薬だけではありません。 友人、家族、自然、趣味、仕事など社会性と個人の尊厳の維持も大事です。 全ての人はオンリーワン。ただ一つの個を社会、家族が認め尊重することから始まるのです。 この介護の実現が二十一世紀の高齢化社会に課せられた課題です。 施設やサービス、制度や政策で形作る介護だけではなく、 一人一人が個を尊厳することで気力の充実を目指す介護こそ、 全ての人類に与えられるべき平和への近道と言えるでしょう。 前のページに戻る 誕生日 生きることは、一日の生活を一週間、一カ月、一年へと繋げること。 その一年の中で最も特別な日は誕生日です。 誕生日のお祝いにと、精一杯の思いを料理やプレゼントに込め、相手の喜びや感謝を期待しますが、 それはもしかしたら介護者の自己満足に過ぎないのかも知れません。 義母は最近、プレゼントの包みを開けることもしなくなりました。 目の前で開けて見せると、ありがとうという言葉は聞けても、本当に嬉しそうにはしません。 老いるということは感動をなくすることかも知れないと思いながら、年々誕生日のお祝いが小さくなっています。 義母はしかし、記憶が薄れゆくなかでも不思議と自分の誕生日ははっきり覚えています。 自分の年を数え、ふと漏らす言葉に、誕生日という一年に一度くる日を大切にしている心が隠れていました。 自分の人生の主役は自分。 義母を彼女の人生の主役として尊び称える誕生日には、 介護者にとっても新たな出発としてお祝いし、忘れない日にしなければなりません。 命を大切にしてくださりありがとうと、九十年の命を称えたいと思います。 前のページに戻る 食事 ベッドでの生活では一日三回の食事が生きる証であり楽しみになります。 毎回の食事がその評価を顕著に表します。残された食事が少ないと嬉しいものです。 食事にばかり時間を掛けられない現状で毎日のトレーに食事以外で演出をする知恵も出てきます。 庭の花を一輪添えたり、コンビニの弁当に抹茶とお菓子を添えたり、トレーをランチョンマットに変えるなど…。 食器を変えるだけでも手抜きや栄養不足が補えることもあります。 栄養も大切ですが、いかに楽しく食べられるかを考える事も重要です。 栄養はからだの健康を維持し,楽しさは心の健康を維持するからです。 高齢者の食事にはどちらも命をつなぐ大切な要素です。 食事は味、形、色彩、環境に大きく影響を受けます。 毎日の変化と演出が、単調な食事から命に活力を与える食事へと変身させるのです。 文字や数字などデータに基いて提供するだけでなく、 遊び心のある食事の提供こそが、心を伝える介護に繋がる大切なことです。 食事は一日三回の舞台です。お皿に表現する心は介護者が生きてきた人生でもあるからです。 前のページに戻る こころ 先が見えない介護の生活が続くと、人の心の様々な側面が見えてきます。 高齢により単調なベッドでの生活が続くと「喜怒哀楽」を失いやすい傾向があります。 子育てでは無邪気な声などで癒されることもありますが、 高齢者の場合笑顔が少なくなる、怒りが薄れるなど、それ自体が重く感じられる時間となることも少なくありません。 感情が心の表現の一つだとすると、喜怒哀楽がなくなることで心が失われていくのだろうかと不安になります。 しかし、それが逆に静かな時間を過ごせる生き方につながるのでは…とも思えます。 心を育てることより心を癒し、維持することが大切になる介護には、子育てにはない難しさがあります。 猫が嫌いな義母は自分の部屋に猫が入るとあからさまに感情を表します。 ベッドに座り足で猫を追っ払う動作をします。可笑しくもあり、嬉しくもあります。 美味しいもの、楽しいこと、喜ぶことを提供しても表情を変えない生活に、 嫌いなはずの猫が変化を与えてくれます。 心は不思議です。 介護を通して自分の心と向かい合う機会を得られ、心の不思議さを体験できるチャンスです。 前のページに戻る 生きる 義母に「生きていても迷惑になる」と言われると、 そんなことは無いのよと答えながら生きていることの悲しさが伝わってきます。 命は大切にしなければならないとどんなに言い聞かせても、長年の介護生活に迷いは出てくるもの。 心や体に負担や負い目を感じながらの関係は楽しくもなく夢も無く希望もありません。 そんな現実と事実をしっかりと受け入れることで初めて、新しい関係や生きることの意味が生まれてくるのです。 生きる事の意味は、きっと死ぬときまで分からないのではないでしょうか。 介護者にとっても、亡くして初めて命の尊さが分かります。 義父を看取った後、改めて義母の介護に取り組むと、 介護が日常の世話や気配りの量ではなく、自分との戦いであることが少しずつ認識できてきました。 人は人のためには生きられません。 人は自分のために、自分の命を守り育てるために生きるのです。 たまたま生きることの行程に介護と言う仕事があった…。 この試練こそが自分の命を育むチャンスなのだと感じています。 前のページに戻る 買い物 ベッドでの生活が長くなると、誰も気付かない間に外に出る生活が少なくなっていきます。 グループホームなどでは、積極的に買い物に誘い楽しみとしている実例もありますが、 家庭介護の場合、本人の意見を尊重するあまり、ベッド以外の時間を軽視する傾向にあるようです。 我が家の義母も例外ではなく、買い物も散歩も時間の経過とともに興味を示さなくなりました。 店に行っても車の中で待っている状態が続くと次回からは買い物自体も一緒に行かなくなります。 散歩に至っては、両方が出来るだけ避けたい気持になってしまっています。 暖かく優しいはずの家庭介護が陥りやすい状態ですが、 施設では買い物を慣習化することで機能や緊張を維持しようとしているようです。 むしろ家庭介護の場合、欲しいものを短時間に買い与えることが、 却って買い物意欲を無くしているとも言えそうです。 買い物を習慣にした生活で、自己実現の意欲を無くさせない介護がこれからの家庭介護に求められる大きな目標です。 生きることは人や物を「求める」こと。「与えられる」ことではないのです。前のページに戻る 尾道を写真で散策! CD−ROM版尾道の写真集「下手な写真家の千五百枚の写真集 尾道」 「びんご経済レポート」に戻る 「びんごイベント百科」に戻る |