800年の歴史を持つ尾道はコメの積み出し港として栄えたのが始まり。今から300年ほど前には北前船が開発され、日本海と瀬戸内海を通って北海道と大阪を結ぶ西回り航路ができた。そして尾道も北前船の寄港地として大いに繁栄した。
北海道や北陸からはコメ、塩さけ、にしん、昆布などが入り、帰りには畳表や木綿、酢、塩などを運んだ。そうした荷物を扱う商人たちの利益は大きく、巨富を築く豪商が多く誕生した。
天候に左右される海が頼りの商人たちは信仰心が厚く、神社、仏閣の建立に際しては進んで寄進した。このためピーク時の尾道には81か寺の寺院を数えたといわれ、西の京都ともいわれた。
また、生活が安定して余裕のあった商人たちは、漢詩や絵画などをたしなみ、多くの文人墨客たちをもてなした。このため尾道を訪れる文人墨客はひきも切らず、多くの著名な人たちがやってきて滞在した。
こうした文人墨客たちの世話をして後援する、いわゆるパトロン役を務めたのが当時の尾道の豪商たちだった。
松山藩の御用商人だった鰯屋の勝島惟恭は、肥料問屋で財をなした豪商で、尾道沖の島、賀島(加島)にあった勝島家の別邸には、神辺で私塾を開いていた全国トップレベルの漢詩人・菅茶山や、竹原の頼春水(山陽の父)らがよく舟遊を楽しんだといわれる。
また、代々尾道の豪商で町年寄も勤めた家筋の島居子瑶も勝島と並んでよく茶山や頼親子の世話をしている。
酒造と土地で財を築いた油屋の亀山元助は茶山の弟子となった文化人でもあった。
質屋、今でいう金融業で資産家となった灰屋の橋本家の分家、加登灰屋の橋本竹下(通称吉兵衛)は、風流の人で山陽に師事し、尾道を訪れる文人墨客を大切にもてなした。
豊後竹田の文人画家・田能村竹田や漢詩人・梁川星巌夫妻も度々尾道に滞在している。
気候温暖で新鮮な魚など、食べ物に恵まれ瀬戸の海に囲まれた風光明媚な尾道は、文人墨客たちにとってこの上もなく居心地のよい土地だったにちがいない。
現在も、尾道の市街地西端に加登灰屋の橋本家(今の広島銀行を興した)が、広大な敷地に塀を巡らせて当時の豪邸の面影をとどめている。
茶山の愛弟子で閨秀画家の平田玉蘊は、木綿問屋・福岡屋の平田五峯の長女で、竹原の頼春風(山陽の叔父)にも学んだ。茶山をはじめ多くの文人墨客が尾道を訪れ、談論の花を咲かせたサロンの一刻を一層盛り上げ、華やかな彩りを添えたのが玉蘊だった。
その玉蘊と山陽との交遊は、色々な曲折の末、悲恋に終わっている。
港尾道の豪商たちが文人墨客を好んでもてなした理由は、趣味として楽しんだ理由もさることながら、彼らの全国的な人脈から得られる情報を大切にしたためとも言われる。
菅茶山▽(かんちゃざん)江戸中・後期の儒学者。広島県深安郡神辺町に藩校となった廉塾を開いた。出版本が全国ヒットとなるほどの漢詩人だった。
頼山陽▽(らいさんよう)江戸後期の漢詩人、儒学者。神辺で廉塾の塾頭を務めた後、京都で塾を開いた。著した歴史書「日本外史」は特に有名。
平田玉蘊▽(ひらたぎょくおん・ORぎょくうん)1787年生まれ。江戸後期に全国版の活躍をした女流画家。頼山陽や田能村竹田らとも親交があった。福善寺のふすま絵は代表作の一つ。